第7話 清楚系サキュバスのバレンタイン大作戦

二月十四日。

世間が浮かれるバレンタインデー当日。

付き合って、もうすぐ三ヶ月目になる。


この重大イベントに向けて、ひよりのテンションはすでに成層圏を突破していた。


「よし。今日こそ……♡」


姿見に映る自分を見て、私はニヤリと笑う。


勝負下着は、繊細な白いレースのブラとTバック。


その上に纏うのは、胸元が空き、太ももまで深いスリットの入ったブルーのニットワンピース。


テーマは——清楚系サキュバス。


“陽一さんを美味しく頂いちゃおう計画”、本日決行である。


「待っててね、陽一さん。今夜、あなたの理性を秒で灰にしてみせるから……♡」


私は意気揚々とキッチンへ向かった。

カウンターの上には、手作りチョコレート。そして、その横には——小指ほどの大きさの小瓶。


『南米の秘境原産!どんな男も一滴であなたの虜に♡』


……どう見ても怪しい。

でも「絶対落ちる!」という文言に、ついネットでポチってしまった。


「これを一滴……入れれば……」


脳内で、普段は温厚な陽一が、シャツを破り捨てて「もう我慢できない……!」と襲いかかってくる妄想が再生される。


(……ギャップ、やば。最高)


「……いやいやいや!!」


私はぶんぶんと首を振った。


薬で落ちる陽一さんなんて、私の好きな陽一さんじゃない。私は、シラフの彼に「好きだ」って言わせたい。ちゃんと気持ちが通じ合ってから美味しくいただきたいのだ。


そのために——

牡蠣も、鶏むね肉も、ブロッコリーも、

「健康のため♡」って言って、せっせと食べさせてきたんじゃない。


「こんな怪しいものに頼るなんて……乙女の恥!」


(※乙女というより肉食獣)


私は勢いよく小瓶の中身を流し台に捨てた。漂ってきた匂いは……完全に麺つゆだった。


「……危な。普通に詐欺じゃん」


***


その日の昼。


休憩室で席を探していると、肩を軽く叩かれた。


「春川先輩」


声の主は、王子谷だった。

すっかりゲーム仲間になり、最近は昼休みに一緒にご飯を食べることが増えている。


ふたりでランチを広げると、王子谷がさっそく切り込んできた。


「白石さんと……うまくいってます?」


喉が詰まりそうになる。


(美形に彼女の名前を呼ばれるの、地味に刺さるな……)


「……まあ、ぼちぼちと」


曖昧に笑いながら、僕は白石さんが作ってくれた弁当を開けた。


鰻玉丼。

鶏むね肉とブロッコリーのサラダ。

牡蠣フライ。


「相変わらず……すごい弁当っすね。白石さん、ガチすぎません?」


王子谷は箸を止めた。


「そうですか? 健康にいいらしいですよ」


僕は本気でそう思っていた。


「……先輩」


王子谷はじっと僕の顔を見て、小さくため息をついた。


「白石さん、先輩のこと……殺す気じゃないっすよね?」


「え?」


意味がわからず首を傾げる。


「あ、そうだ」


僕は弁当袋の底から、いつもセットを取り出した。


・高濃度亜鉛サプリ

・マカ

・男性活力系の栄養ドリンク


「白石さんが『午後も頑張れるように』って」


王子谷は——完全に固まった。


「……」


「……?」


「……先輩」


震える声で言われる。


「それ、仕事を頑張るとか、そういう次元じゃないっす」


「え?」


王子谷は心の中で思った。

(白石さんエグっ……一体どんな夜の要求してるんだ……?先輩は明日生きて出社できるのか?……)


僕は完全に“同情の眼差し”を向けられた。


「先輩、すごい人だと思います」


「なにが……?」


「……白石さんの“愛”を、全部受け止めてるところが。男の中の男っていうか、英雄(ヒーロー)っすね」


「?」


「命だけは大事にしてください」


意味が分からないまま、僕は弁当を完食した。



***


そして夜。

仕事を終え、待ち合わせの商業ビルにある夜景の美しいレストランへ向かう途中、

ひよりは重大なミスに気づいた。


「……さっっむ!!!」


二月の夜風を、完全に舐めていた。深いスリットは冷気の入り口で、開いた胸元はただの通気口。


しかも——

気合を入れてメイク直しをしているうちに、ストールを会社のロッカーに置き忘れてきたのだ。


-***


レストランの入り口で合流した白石さんは、厚手のロングコートの前をきっちり閉めていた。耳当てをした姿は小動物のようで可愛らしい。

 ——そう、ここまでは良かったのだ。僕たちは予約を告げ、クロークへ荷物を預けた。

「コート、お預かりいたします」

 店員に促され、白石さんがコートを脱いだ、その瞬間。僕は目の思考回路は、ショートしそうになった。


「……えっ」


 コートの下から現れたのは、鮮やかなブルーのニットワンピースだった。

 身体のラインに吸い付くような薄手のニット素材。背中は肩甲骨の下までぱっくりと大胆に開き、透き通るような白い肌が露わになっている。そして何より——。


「予約してくれてありがとうございます、陽一さん♡」


 彼女が振り返り、ふわりと微笑む。その胸元は、V字に深く切り込まれていて、ギリギリ谷間が見えるか見えないかの状態だった。歩くたびに、太ももの付け根まで入った深いスリットから、艶めかしい足がチラチラと見え隠れする。


(な、ななな……!?なんて格好だ……!?)


 僕は絶句した。これはもう、「歩く18禁」だ。周囲の男性客の視線が、一斉に彼女に突き刺さるのが分かった。いや、見ちゃうよ。これは見ちゃうって!


「行きましょう? 陽一さん」

 動揺する僕の腕に、彼女がしなだれかかってくる。


柔らかい感触が腕に押し当てられ、甘い香水が鼻をくすぐる。完全に「誘って」いる。 理性が、本能という名のダムに押し流されそうになる。


(落ち着け、落ち着け……! 今日はバレンタインだ。特別な夜にしたい気持ちは分かるけど……!)


 席に案内される間も、僕は目のやり場に困り果てていた。彼女が椅子に座り、足を組み替える。スリットが開き、眩しい太ももが惜しげもなく晒される。


「ふふ、どうしました? 顔、赤いですよ?」


 白石さんがテーブル越しに、わざとらしく身を乗り出す。  重力に従って強調される胸元。上目遣いの挑発的な瞳。僕は水を一気に飲み干した。喉がカラカラだ。


 ——その時だった。

「……っ」


 彼女が、小さく身震いをし、二の腕をさするのが見えた。

(……寒いんだ)


 当然だ。二月の夜、いくら暖房が効いているとはいえ、その格好は無防備すぎる。それに、ハッと気づく。彼女はストールなどの羽織りものを持っていない。


「その格好……寒くないんですか?なにか羽織るものは……」


「あ、えっと……会社に忘れちゃって。でも大丈夫です! 陽一さんがあっためてくれるでしょ? ♡」


 強がって笑っているが、唇は紫色だ。


……ダメだ。

 僕の中の「興奮」が、急速に「心配」へと変わっていく。僕のためにお洒落してくてくれたのは嬉しいけれど、彼女に風邪を引かせるわけにはいかない。



「……ちょっと、ここで待っててください!」

僕は席を立った。そして、店の出口へと早足で向かう。たしかビル内に雑貨屋があったはずだ。


***


「ハァ……ハァ……!」


 十分後。  僕は息を切らして席に戻った。手には、ショップの袋から取り出したばかりの、カシミヤの大判ストール。


「お待たせ」

「陽一さん……?」


きょとんとする彼女さんの背後に回り、僕はふわリとストールをかけた。  

露出した背中と、冷えていた二の腕を、温かい布ですっぽりと包み込む。


「これ、使ってください。寒そうだったから」

「え……これ、今の間に買ってきたんですか……?」

「一番暖かくて、その服に似合いそうなのを選んだつもりなんだけど……どうかな」


白石さんが、目を見開いて僕を見上げる。

「……あったかい」

「よかった」


 僕は安堵して席に着いた。ストールで隠れてしまった「絶景」を惜しいと思わなかったわけじゃない。でも、布に包まれてほっとした表情を浮かべる彼女のほうが、露出した姿よりもずっと愛おしく思えた。


「……優しいですね、陽一さん」

 彼女が口元をストールに埋め、顔を赤らめる。その表情は、さっきまでのサキュバスのような妖艶さは消え、少女みたいだった。


(……危なかった。ある意味、さっきより破壊力が高い)

僕はドキドキをごまかすように、メニューを開いた。


その夜、彼女はずっとストールを手放さず、時折思い出したように僕を見ては、嬉しそうに微笑んでいた。


***


レストランの料理は美味しく、会話も穏やかだった。白石さんから手作りのチョコをもらって、結局、その夜はそれだけで終わった。


 帰りの電車の中。ひよりは、首元のストールを握りしめながら考えていた。


(……落ちない)


 これだけ仕込んだのに。これだけ栄養を与えたのに。


(でも……)

(欲しいのは、身体だけじゃない)


 簡単に落ちない男。欲望より、優しさを優先させる男。私のために走って戻ってきた姿が、何度も脳裏に浮かぶ。


 ——ドクン。

 心臓が、はっきり音を立てた。かっこ良すぎる。無理。


「好き……」

(……ああ、はやく食べたい。絶対、食べるけど今日はおあずけ♡)


 狩りは、まだ終わっていない。

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