第6話 彼が仕事をしている間に、怪盗は静かになる

 誠志郎の一日は、一般的な高校生のそれとは明らかに異なる密度で構成されていて、朝のわずかな時間ですら、彼にとっては意思決定と調整の連続であり、コーヒーを淹れる手元と同時に、タブレットの画面では複数のグラフと数値が静かに更新され続けていた。


 リビングの隅、ソファの背もたれに顎を乗せるような格好で、リラはその様子をぼんやりと眺めている。

 怪盗としての彼女は、本来なら人の生活を観察する側であり、ましてや同じ空間で、何かを“盗まずに見ているだけ”という状況は、どう考えても異常だった。


 誠志郎は画面から視線を外さずに言う。


「今日は、少し忙しくなります」


「……うん」


 それだけで会話は成立する。

 何をするのか、どれくらいかかるのか、説明はない。

 けれど彼の指の動きが普段よりもわずかに速く、呼吸が一定のリズムを保っているのを見れば、それが“仕事モード”に入った合図だということは、数回の侵入ですでにリラにも理解できていた。


 オンライン会議が始まる。

 画面の向こうには、大人の顔が並ぶ。

 スーツ、オフィス、背景の書棚。

 その中心で、制服姿の高校生が、何の違和感もなく議題を整理し、問題点を切り分け、数字を根拠に結論を提示していく。


「現行案では、供給が三週間で詰まります。想定を一段階上げた場合のシミュレーションを、こちらで共有します」


 声は落ち着いていて、感情の起伏はほとんどない。

 それでも言葉には迷いがなく、相手が次に何を聞きたいかを先回りして用意している。


 リラは息を潜める。

 忍び込む時とは違う意味で、音を立てないように。


 怪盗として培った“存在感を消す技術”が、まさかこんな形で使われるとは思っていなかったが、今の誠志郎の集中を乱すことだけは、本能的にやってはいけない気がしていた。


 会議が一つ終わり、間を置かずに次が始まる。

 画面が切り替わるたび、誠志郎の表情はほとんど変わらないのに、話す内容だけが、資金、技術、スケジュールと次々に切り替わっていく。


「……すごいね」


 思わず漏れた声は、彼の耳に届かないほど小さかった。


 昼前になり、ようやく一区切りついたところで、誠志郎はコーヒーを淹れ直し、軽く肩を回した。

 その動作を見計らったように、リラはソファから立ち上がる。


「邪魔だった?」


「いいえ」


 即答だった。


「ここに誰かがいる状態で仕事をする、というデータが取れました」


「……何のデータ?」


「集中力の持続率です」


 リラは少しだけ眉をひそめる。


「結果は?」


「想定より、下がりませんでした」


 それは、肯定だった。


 午後は資料作成に移る。

 キーボードの音が規則正しく続く中、リラはキッチンで勝手にお茶を淹れ、勝手に洗い物をし、勝手にまたソファに戻る。


 何もしない時間。

 盗みもしない、逃げもしない、ただ同じ空間にいるだけの時間。


 それが、不思議と居心地が悪くない。


 夕方、誠志郎は画面を閉じ、深く息を吐いた。


「終わりました」


「お疲れさま」


 その一言が、思っていた以上に自然に出て、リラは少し驚く。


「今日も、来ると思っていました」


「……侵入する前提?」


「今更です」


 それだけの理由。

 けれど彼は、すでに冷蔵庫を開け、二人分の食材を確認している。


 仕事をしている間、怪盗は静かだった。

 そして仕事が終わったあと、二人で食べる夕飯が、今日も当たり前のように用意される。


 誠志郎の完璧な日常は、今日も滞りなく進行している。

 ただ一つ、最初から組み込まれていなかった存在が、いつの間にか、その工程の中に含まれるようになっていただけだった。

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