勇者(親友)の隣に立つ偽物の君へ
空‐kuu‐
第1話 俺を上書きした、完璧な代役①
泥の味がした。這いつくばった地面から立ち昇る腐葉土の匂いと、夜露を含んだ冷気が、鼻腔の奥にへばりついているのだ。指先がかじかんで、感覚がない。だが、それでよかった。この不快感だけが、今の俺がここにいるという、唯一の証明になっていたからだ。
俺は息を殺し、太い樫の木の根元に身を潜めている。目の前には、夜の森を切り裂くようにして聳え立つ、石造りの砦がある。その正門には篝火が焚かれ、パチパチという爆ぜる音が、風に乗ってここまで届いていた。
ああ、光だ。あそこには、暖かな光がある。
「――っ、くしゅ」
不意に、静寂を破るような、間の抜けた音が響いた。俺の心臓が、早鐘を打つ。音の出所は、砦へと続く街道の向こう側。二つの影が、ランタンの揺れる光とともに、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
「おいおい、大丈夫かよリアス。勇者様が風邪引いたなんて言ったら、国中の薬屋が大騒ぎするぜ」
「うるさいな……。埃を吸っただけだよ。最後のあいつ、崩れる時に変な粉を撒き散らしやがって」
聞こえてきた声に、俺の胃袋が冷たい手で鷲掴みにされたように収縮した。知っている声だ。鼓膜ではなく、骨に直接響いてくるような、馴染み深い声。先頭を歩くのは、リアス・オルブライト。濡れた黄金のような髪を乱暴にかき上げながら、不機嫌そうに鼻をすすっている。歩き方は疲労を滲ませていたが、纏っている空気は圧倒的に華やかで、夜の闇すら彼を避けて通るようだった。
そして、その隣。リアスの半歩後ろ、影を踏むような位置に、もう一人の男がいる。
「ほらよ、水。口を漱いだ方がいい」
「ん、サンキュ。……お前、よく気がつくなあ、昔から」
「お前の世話係は、俺の専売特許だからな」
革袋を差し出したその男の顔が、ランタンの光に照らされると、俺は思わず地面の泥を握りしめた。爪の間に土がめり込み、皮膚が裂ける痛みが走る。やや明るい灰色の髪に、少し垂れ気味の目尻と冷めたような碧眼。左の頬にある、小さな古傷。鏡を見ているようだった。いや、鏡以上に、その男は俺だった。イオス・リンドバーグ。俺の名前を名乗り、俺の顔をして、俺の親友の隣を歩く。システムが作り出した
吐き気がした。自分の姿をした何かが動いているという、生理的な嫌悪感ではない。もっと致命的で、絶望的なものだ。あいつの所作が、あまりにも自然すぎたから。革袋の蓋を開けて手渡すタイミング。リアスの歩幅に合わせて速度を緩める呼吸。そのすべてが、かつて俺が何千回、何万回と繰り返してきた、リアスの親友としての正解そのものだった。
俺が積み上げてきた時間は、こんなにも簡単に再現できるものだったのか。俺という人間の人生は、あいつの隣で過ごしたすべての時間は、こんなにも簡単に誰かに上書きできるほど、安っぽい役割だったのか。
「ぷはっ……生き返った。あの粉、やっぱ喉にへばりつくな」
「背中、払っておくよ。じっとしてろ」
偽物が、リアスの背中に回る。ポン、ポンと、埃を払う音が森に響く。俺は唇を噛み締めた。そこは、俺の場所だ。その背中の、鎧の留め具が少し緩みやすいことも、右肩の古傷が雨の日には痛むことも、知っているのは俺だけのはずだった。俺だけが、その背中を守ることを許されていたはずだった。
「……なぁ、イオス」
リアスが、ふと足を止めた。砦の門まであと数メートルという場所だ。門番たちが勇者の帰還に気づき、慌ただしく敬礼の準備をしているのが見える。
「なんだ?」
「今日の連携、すごく良かったな」
リアスの声は、弾んでいた。魔物を倒した達成感から来るものではない。もっと個人的で、無防備な響きを含んでいた。
「あの大型種が腕を振り上げた時さ。俺は合図もしてないのに、お前が右側に回り込んでくれてたろ。あのおかげで、俺は迷わず剣を振り抜けた」
リアスは、偽物の方を向き、少年のような笑顔を見せた。その笑顔が、俺の網膜を焼き、胸を締め付ける。
「やっぱり、お前とだと戦いやすいよ。言葉にしなくても、俺の考えてることが全部伝わってる気がする」
やめてくれ。森の暗闇の中で、俺は音のない叫びを上げた。言わないでくれ。その言葉だけは。それは、俺たちが初めてパーティーを組んだ夜、焚き火の前で交わした言葉だったじゃないか。それを、そんな、作られた人形に向かって投げかけないでくれ。
そんな思いも届くことなく、偽物は、どこまでも完璧だった。少しだけ照れたように視線を逸らし、鼻の頭を指で擦る癖まで再現して、こう答えたのだ。
「当たり前だろ。俺たちは、二人で一つなんだから」
カチリと、俺の中で何かが砕ける音がした。
二人の会話には、一片の淀みもなかった。そこには違和感など存在しない。リアスにとって、隣にいる男こそが、苦楽を共にしてきた本物のイオス・リンドバーグなのだ。俺の記憶も、俺の存在も、最初からなかったことになっている。
風が吹いた。木々がざわめき、俺の体温を奪っていく。寒い。どうしようもなく寒い。気温のせいなんかではない。俺という存在が、この世界のどこにも繋ぎ止められていないという事実が、骨の髄まで凍らせていくのだ。
リアスが再び歩き出す。偽物がそれに続く。二人の足音は、心地よいリズムで重なっている。
「そういやさ、帰ったら何食う? 食堂の親父、今日は鹿肉仕入れたって言ってたぜ」
「鹿肉か。なら、シチューにしてもらうよう頼んでみるか。お前、昨日の硬いパンのせいで顎が痛いって言ってただろ? 柔らかいものの方がいいんじゃないか?」
「うわ、そこまで覚えてたのかよ。まったく、世話焼きの親友を持っちまって困るぜ」
「うるさい。ほら、行くぞ」
軽口を叩き合いながら、彼らは光の中へと進んでいく。その光景は、あまりにも美しかった。俺という異物が排除されたことで、世界はより滑らかに、より鮮やかに回っているようにすら見えた。
涙が出る代わりに、どす黒い熱が腹の底で渦を巻いていく。なぜだ。なぜ、気づかない。リアス。お前は勇者だろう。誰よりも鋭い勘と、全てを見通す目を持っているはずだろう。その目も、偽物に誑かされるほどに、愚かだというのか。なぜ、お前の親友である俺が、ここにいることに気づきもしないんだ。俺の匂いも、気配も、お前なら分かったはずじゃないのか。
(俺を見ろ)
泥だらけの手で、樫の木の樹皮を掻きむしった。
(こっちを見ろよ、リアス!)
俺はここにいる。お前のために剣を取り、お前のために泥を啜り、お前のために死にかけてきた俺は、この暗闇の中にいるんだ。
だが、リアスが振り返ることはなかった。彼の背中は、信頼しきった無防備さで、偽物に預けられている。彼が偽物に笑いかけるたびに、俺の過去が一つずつ消されていくような感覚に襲われる。
篝火の光が、二人の影を長く伸ばした。その影が、森の闇に潜む俺の足元まで届き、そして通り過ぎていく。まるで、俺の存在など、最初から路傍の石ころでしかなかったかのように。
「あ、そうだイオス」
門をくぐる直前、リアスが思い出したように声を上げた。彼は立ち止まらず、歩きながら横を向く。偽物の耳元に顔を寄せる。内緒話をする子供のような、悪戯っぽい仕草だった。
「今夜、部屋に来いよ。……例のやつ、見せてやるから」
俺の呼吸が止まった。例のやつ。その言葉の意味を知らなければ、どれほどよかっただろうか。それは、俺たちが故郷を出る前夜、二人で誓った約束の品のことだ。誰にも見せたことのない、二人だけの秘密。それを、リアスは今、あいつに見せると言ったのか。
――許さない。
明確な言葉として、それが脳裏に浮かんだ。 悲しみでもなく、諦めでもなく、純粋で、研ぎ澄まされた殺意に近い感情。
俺の場所を奪った偽物への憎悪。そして、俺を忘れ、偽物と幸せそうに笑っているリアスへの、どうしようもない愛憎。
俺の手が、無意識に腰の短剣へと伸びた。震える指先が、冷たい柄に触れる。飛び出して、叫んでやりたい。その偽物の首を切り裂き、その中身がただの回路と粘液であることを暴き出し、リアスの目の前に突きつけてやりたい。『見ろ、これが俺の代わりか』と。『こんなものが、お前の親友なのか』と。
だが、足が動かなかった。そんなことをすれば、リアスは俺を敵として認識するだろう。あの優しい瞳が、魔物に向けるのと同じ、凍てつくような軽蔑の色に染まるのが、想像できてしまったからだ。
嫌われたくなかった。こんな仕打ちを受けてなお、俺はまだ、あいつの親友でありたいと願っていた。その矛盾した感情が、この
ただ、見送ることしかできなかった。光の中に消えていく二人を。世界で一番正しい物語を歩む主人公たちを。
砦の重厚な門が、軋んだ音を立てて開き始める。中から溢れ出る光が、さらに強く森を照らす。目を細めた。眩しすぎたから。その光の中に、俺の居場所がないことが、あまりにも鮮明すぎたから。
その時だった。
リアスの背中を追って、門の中へ足を踏み入れようとしていた偽物――イオスIIが、ふと足を止めた。本当に、ほんの一瞬のことだった。まばたき一回分にも満たない時間。彼は、リアスに気づかれないように、ゆっくりと首を巡らせた。
その視線が、正確に、一直線に、俺が潜んでいる樫の木の根元へと向けられた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます