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カマエル・シャニー

第1章 桜花

結婚式の喧騒が遠ざかるにつれ、胸の奥に冷たい空洞が広がっていった。

瀬谷駅の夜は静かで、祝福の余韻だけが耳の奥に残っている。

あの幸福の空気に長く触れていると、逆に自分の輪郭が曖昧になるような気がした。


愛や永遠を信じられない自分が、あの場に立っていたこと自体が少し滑稽だった。

利害の一致を“愛”と呼び、儀式で固めて安心する。

それを否定するつもりはないが、どうしても自分には馴染まない。


駅から家へ向かう道の途中、大きな桜の木がある。

満開の花が街灯に照らされ、風もないのにわずかに揺れていた。

花びらがひとつ、またひとつ落ちていく。


その根元に、黒い影があった。


最初は落とし物かと思った。

けれど近づくにつれ、影はわずかに震え、硬い表面が鈍く光った。

生き物の形をしているようで、していない。

甲殻のような外皮が、桜の花びらを弾き返している。


足が止まった。

怖いという感情はあったが、それ以上に、胸の空洞が少しだけ温度を取り戻すような感覚があった。


しゃがんで手を伸ばすと、外皮は冷たくて硬かった。

精巧な人形の表面に触れているような感触が指先に残る。

その体が小さく震えた。


影はゆっくりと体を起こした。

四肢のようなものを地面につき、ぎこちない動きでこちらを向く。


名前が自然に浮かんだ。

理由はわからない。

ただ、その名前が、この存在にふさわしい気がした。


ハル。


ハルは僕の足元まで近づいてきた。


じっと見上げてくるその姿が、どうしようもなく置いていけないものに見えた。

ため息をひとつつき、スーツのポケットから鍵を取り出す。


歩き出すと、ハルはゆっくりついてきた。

硬い外皮が擦れる小さな音だけが夜の静けさに混ざる。


マンションの前に着くと、ハルは建物を見上げるようにして立ち止まった。

その仕草が妙に人間らしく見えて、背筋に冷たいものが走る。


鍵を回してドアを開けると、ハルはゆっくりと中へ入った。


その瞬間、僕の生活は静かに変わり始めた。

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