第1章 斑鳩のグリッド・レボリューション

第1話 持たざる者たちの定規

陽が高くなるにつれ、斑鳩の空気は湿度を増していった。裏山の中腹にある廃堂。そこが正清と孤児たちの根城であり、唯一の自由な実験場だった。腐りかけた檜皮葺きの屋根からは光が漏れ、盗んできた端材や、刃こぼれした鑿(のみ)が散乱している。だが、その自由な空間は今、不条理な停滞の中にあった。


「ああん?合わねえだと?ふざけんな猿。俺は言われた通りの寸法で切ったぞ」巨漢の鉄が、切り出したばかりの杉材を地面に叩きつけた。土埃が舞い、湿ったカビの臭いが立ち昇る。 「知らねえよ。お前が切った梁(はり)、俺の柱のほぞ穴に入らねえんだよ。太すぎるんだ」 猿と呼ばれた小柄な少年も、負けじと喚き散らす。


 二人が睨み合う足元には、無惨に加工された木材が転がっていた。切断面は荒く、接合部は噛み合わない。それは建築以前の、単なる木の死骸だった。正清は黙って二人の間に割って入ると、それぞれの腰に差していた竹切れ――彼らが「定規」として使っているものを取り上げた。一瞥する。やはりだ。溜息をつきたい衝動を飲み込み、正清は二本の定規を並べて突き出した。


「見ろ」


 鉄と猿が目を白黒させる。並べられた二つの定規。その目盛りは、明らかにズレていた。鉄の刻んだ「一尺」は、猿のそれよりも、親指の爪一つ分ほど長い。


「……あれ?」 「なんでだよ。どっちも親方の道具箱からくすねた曲尺(かねじゃく)を真似したんだぞ」


「大工によって尺が違うんだ」 正清は静かに告げた。現代の建築現場しか知らぬ者には信じがたいことだが、この時代の寸法は極めて曖昧だ。京間、田舎間、あるいは棟梁ごとの「俺の尺」。誰もが自分の身体や感覚を基準にしているため、他人の仕事と噛み合うはずがない。これでは分業など夢のまた夢だ。部材をあらかじめ加工するプレカットなど、できるはずもない。


「お前らが下手なんじゃない。基準(ルール)がないだけだ」 正清は二本の定規を膝でへし折った。乾いた破砕音が、堂内に響く。


「基準?」 鉄が怪訝な顔をする。 「良い音楽には拍子があるだろう。良い建築にも拍子が必要なんだ。狂った拍子で太鼓を叩いても、踊ることはできん」


 正清は、隅でうずくまっていた盲目の少年・算(さん)の手を引いた。 「算、お前の杖を貸してくれ」


 正清は懐から小刀を取り出すと、硬い樫の杖を削り始めた。 シュッ、シュッというリズミカルな音が静寂を満たす。現代の記憶にある「モデュロール」――人体寸法と黄金比に基づく基準寸法。だが、いきなりそんな高尚な理屈を説いても伝わらない。必要なのは、彼らの身体に馴染む、このチームだけの共通言語だ。


「鉄、手を広げてみろ」正清は鉄の両手を広げさせ、その長さを測った。次に猿の歩幅。算の肘から指先までの長さ。それらの平均値を割り出し、独自の目盛りを樫の棒に刻み込んでいく。


「いいか。今日から、この杖が俺たちの『原器』だ」正清は完成した定規を高く掲げた。 「鉄の一尺も、猿の一尺も忘れろ。この『中井尺』だけを信じろ。そうすれば、鉄が山で切った木が、里にいる猿の柱に吸い込まれるようにハマる」


 孤児たちは、狐につままれたような顔をしている。正清は苦笑し、地面に落ちていた石灰(いしばい)の欠片を拾った。土間になめらかな線を描く。 縦、横。縦、横。 現れたのは、正方形が整然と並ぶ格子模様だった。


「建物を建てる時、いきなり柱を立てようとするな。まず、地面にこの網目を描くんだ。一マスを三尺とする。柱は必ず、この網目の交点に立つ」


 それは、近代建築の基本である「グリッド・プランニング」の概念だった。 職人の勘や経験に頼るのではなく、幾何学的な秩序の上に空間を構成する。誰がやっても同じ結果が出る仕組み。それこそが、持たざる者たちが熟練の職人に勝つ唯一の方法だ。正清は、盲目の算の手を取り、地面に描いたグリッドの上を歩かせた。


「算、足の裏で感じるか?これが俺たちのリズムだ」


 算はおっかなびっくり足を運んでいたが、やがてその顔に驚きの色が浮かんだ。 「……わかる。迷わないよ、若。次に足をどこに置けばいいか、地面が教えてくれるみたいだ」


「そうだ。目が見えなくても、この網目があれば柱の位置がわかる。図面が読めなくても、この四角形を積み上げれば城だって建つ」


 正清は立ち上がり、汚れた子供たちを見回した。彼らの瞳に、先ほどまでの「諦め」とは違う、小さな「好奇心」の灯がともり始めている。


「俺たちは大人より力が弱い。経験もない。道具もボロだ。まともにやり合えば負ける」 正清の声に熱がこもる。 「だが、この『定規』と『網目』があれば、俺たちは大人よりも速くなれる。迷う時間がなくなるからだ。修正する手間がなくなるからだ」


 正清は、へし折った古い定規を焚き火の中に放り込んだ。炎が爆ぜる。


「完璧なんて目指さなくていい。昨日のデタラメな作業より、今日の一手(ひとて)が少しマシになればいい。その積み重ねが、いつか法隆寺の大人たちさえも青ざめる『機能美』になる」


 鉄がおずおずと、新しい樫の定規に手を伸ばした。その指先が震えているのは、恐怖からではないだろう。未知の道具への、職人としての渇望だ。正清はその定規を鉄に渡さず、あえて地面に突き立てた。


「欲しけりゃ、自分で作れ。この原器を写し取って、自分だけの定規を作るんだ。それが、中井組の最初の仕事だ」


 一瞬の静寂の後、子供たちが一斉に端材の山へ飛びついた。我先にと竹を割り、小刀を走らせる。その目は、獲物を追う狼のように鋭い。その光景を見ながら、正清は密かに息を吐いた。手の中には、現代の知識と、戦国の現実が混じり合った奇妙な高揚感がある。


 建築家の仕事は、図面を描くことではない。人間が動くための「仕組み」を設計することだ。 カーン、カーン。 廃堂に響く音が変わった。それは無秩序な騒音ではなく、一つの目的に向かって収束していく、心地よい建設のプレリュードだった。

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