第2話 震える彼女と深海ランチ
キーンコーンカーンコーン
チャイムと同時に、気怠げな声が教室に響いた。
「はい、お前ら席に戻れよー」
数学教師の
クラスメイトたちがぞろぞろと自席へ戻る中、俺、
ふと隣を見ると、
(……また出るな、グソちゃん)
机の端に
文房具もそれなのかよ、
と心の中でツッコミを入れる。
授業が始まると、赤羽の様子が一変した。背筋をピンと伸ばし、黒板の数式を猛烈な勢いでノートに書き写していく。ペンの走りに迷いがない。どうやら勉強はかなり得意なようだ。 これなら心配ないか、―――そう思った矢先だった。
「じゃあここ、んー、赤羽。答えてみろ」
「ひいっ!?」
「あ、あ……う……」
口はパクパクと金魚のように動いているのだが、声が出ていない。 クラス中の視線が彼女に集中する。沈黙が痛い。
「ん? どうした赤羽。分からんか?」先生がチョークでコツコツと黒板を叩く。
「違う」 ――俺は心の中で否定した。
隣の席の俺からは、彼女のノートが丸見えだった。そこには完璧な途中式と、正しい答えがすでに書き込まれている。 分かっているんだ。分かっているのに、注目を浴びたショックで喉が締まり、声が出せなくなっているだけだ。 このままじゃ、答えられないまま「授業を聞いていない生徒」扱いされてしまう。
(……見てらんねぇな) 俺は小さく息を吐くと、片手を軽く挙げて口を開いた。
「先生。赤羽さん、答え出てますよ。ノートに書いてあります」
「あ?」
「えーと、頂点の座標は……(2、-3)ですね」
俺は赤羽のノートを覗き込み、そこに書かれた正解を読み上げた。 数村先生は眉をひそめ、黒板の答えと照らし合わせる。
「……正解だ。赤羽、分かってるなら最初から言え」
「は、はいぃ……」
先生の視線が外れると、赤羽はへなへなと机に突っ伏した。 そして、ちらりと上目遣いで俺を見る。その瞳は、「また助けてくれた」という感謝と尊敬の念に満ちていた。
その後も赤羽は四回ほど白目を剥いて気絶しかけたが、なんとか四時間目を乗り切り、待ちに待った昼休みがやってきた。
チャイムが鳴るや否や、クラスの女子数人が赤羽の席へ向かった。
「ねえ赤羽さん、一緒にお昼食べない?」
転校生への洗礼というか、興味本位の勧誘だ。だが、彼女たちが席にたどり着いた時、そこに赤羽の姿はなかった。 代わりに置かれていたのは、グソちゃんの頭に「2号」と付いた謎の身代わり人形。
「えっ、いつの間に!?」
早業すぎる。忍者か。
『おーい青柳ぃ!!! 飯食おうぜー!!!』
今度は野太い声が飛んできた。クラスの陽キャ代表、黄金井輝だ。その後ろには陰キャオタクの薮下茂も控えている。 あいつらに捕まると、間違いなく面倒なことになる。俺の平穏なランチタイムが、バカと早口オタク語りで埋め尽くされてしまう。
「悪い、ちょっと用事がある」
俺は適当な言い訳を残し、素早く教室を脱出した。購買で争奪戦をくぐり抜け、【我が高校の名物「落花生バターパン」】を確保すると、静寂を求めて屋上へと向かう。
屋上の扉を開けると、そこには先客がいた。 ベンチにちょこんと座り、幸せそうに弁当箱を広げている小さな背中。赤羽雫だ。俺に気づいていないようなので、屋上の端でパンをかじりながら様子を見ることにした。
彼女の箸が持ち上げたのは、鮮やかな赤色のウィンナー。だが、形がおかしい。足が八本に広がり、耳のような突起がついている。
「……ぶふっ」
俺は思わず吹き出した。メンダコだ。あれはタコさんウィンナーならぬ、メンダコさんウィンナーだ。 その音に、赤羽がビクリと肩を跳ねさせた。恐る恐る振り返り、俺だと気づくと警戒心は解けたようだが、小動物のように震えている。俺は苦笑しながら近づいた。
「それ……メンダコ?」
「!!」 赤羽さんがバッと顔を上げた。その瞳がキラキラと輝き出す。
「わ、わかりますか……? メンダコ……深海のアイドル……」
「いや、まあ、形は特徴的だし……」
まさかキャラ弁ならぬ、深海生物弁とは。 よく見ると、隣のおかずもタコというよりは、足の長さ的に完全に「ダイオウイカ」の造形だ。こだわりが強すぎる。
「自分で作ったの?」
「は、はい……。早起きして……足の吸盤を、ゴマで……」
モジモジしながら言う姿は、普通の女子高生っぽくて可愛い。弁当の被写体さえ普通なら、確実に惚れていただろう。
「すげぇな。器用なんだ」 俺が素直に感心すると、赤羽さんは「えへへ」と照れくさそうに笑った。
その瞬間――
『おーい! 青柳ー! どこ行ったー!』
階下の廊下から、黄金井のデカイ声が響いてきた。あいつ、俺を探してここまで来たのか。
「ひぃッ! ほ、捕食者……!」
赤羽さんがパニックを起こした。慌てて弁当の蓋を閉めようとして
――手が滑った。
スローモーションのように、深海生物弁当が空中に舞う。
俺は反射的に手を伸ばした。 ガシッ。 間一髪、空中で弁当箱をキャッチする。しかし、勢いで具材が一つだけ、コロンと転がり落ちてしまった。 黄色い玉子焼きだ。俺は空いた左手で、それをなんとか受け止める。
「セ、セーフ……」
「あ、あう……ご、ごめんなさい……!」
真っ青になって謝る赤羽さん。俺は手の中の玉子焼きを見た。床に落としたわけじゃないし、捨てるのももったいない。
「これ、もらっていい? 戻すのもあれだし」
「えっ、でも……毒はありませんよ……」
「毒あったら困るよ」
俺は苦笑しながら、その玉子焼きを口に放り込んだ。
――ん?
口いっぱいに広がる、優しい出汁の風味と、ほんのりとした甘さ。 見た目は奇抜な深海生物ばかりだが、味は驚くほど繊細だ。
「……美味い」思わず本音が漏れる。
「これ、すごく美味いよ。料理上手なんだな、赤羽さん」
俺がそう言うと、赤羽さんはポカンと口を開け、それからみるみるうちに顔を赤くした。頭から湯気が出そうなほど真っ赤だ。
「こ、光栄です……」 蚊の鳴くような声でそう言って、彼女は弁当箱を大事そうに抱きしめた。
『おーい! ここかー!?』
ドタドタと足音が近づいてくる。黄金井だ。
「行こう。あいつに見つかると、そのメンダコもいじくり回されるぞ」
「ひぃ! に、逃げます……!」
赤羽さんは《脱兎》のごとく立ち上がり、ペコリと俺に頭を下げると、ものすごい速さで反対側の扉へ走り去っていった。 その背中はやはり少し震えていたけれど、俺の口の中には出汁巻き卵の優しい味が残っていた。
(変な子だけど……悪いやつじゃないんだよな)
口の中に残る出汁巻き卵の優しい余韻だけを頼りに、俺は黄金井たちの待つ騒がしい日常へと足を踏み出した。
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