少し残念な猫又と、人間の勝利 ー いつでも逃げれる君と、今日を生きる僕

エートス記録官

第1話 ゴミ集積所で、少し残念な神に出会った


 雨は細かく、しつこく降っていた。


 久遠くおんは、アパート裏のゴミ集積所の前で立ち止まった。

 両手には、濡れたゴミ袋。

 底から、生ゴミの汁が少し滲んでいる。


 傘は持っていない。

 持つのを忘れたわけでもない。

 ただ、どうでもよかった。


 ゴミ集積所には、黒い袋が乱雑に積まれていた。

 段ボール、空き缶、割れた瓶。

 雨でふやけて、どれも形が崩れている。


 袋を投げるように置いた、その瞬間。


 ――がさっ。


 音がした。


「……?」


 久遠は一瞬だけ顔をしかめた。

 野良猫か、カラスだろう。

 正直、関わりたくなかった。


 だが。


 もう一度、がさり、と音がする。


 久遠は、ため息をつきながら視線を向けた。


 そこにいたのは、白い猫だった。


 正確には――

 白い猫が、ゴミ袋に頭を突っ込んだまま抜けなくなっていた。


 後ろ足が地面を空振りしている。

 前足は袋の中。

 完全にハマっている。


 しかも。


 頭の上に、魚の骨が引っかかっていた。

 どこから拾ったのか分からない。

 王冠みたいに、堂々と。


「……何やってんだ」


 思わず声が出た。


 白猫は、こちらを見た。

 半分だけ開いた目。

 眠そうで、不機嫌そうで、

 明らかに「邪魔するな」と言いたげな顔だった。


「……」


 猫は鳴かない。


 代わりに、尻尾が動いた。


 ――二本。


 久遠は、動きを止めた。


「……え?」


 見間違いじゃない。

 白くて長い尻尾が、二本ある。

 しかも、動きが微妙に違う。


 片方は苛立たしげにぴん、と跳ね、

 もう片方は、だるそうに垂れている。


「……猫又?」


 その瞬間。


「失礼だな……なんだ、その目は。笑いたいなら笑え。人間の分際で」


 はっきりした女の声がした。


 久遠は、完全に固まった。


「……しゃ、しゃべっ」


「大声を出すな」

 白猫は、袋に頭を突っ込んだまま言った。

「集中が途切れる」


「集中って……何の?」


「脱出だ」

 当然のように言う。


 久遠は、数秒、思考を放棄した。

 そして――袋に手を伸ばした。


「ちょ、待て」

「引っ張るな。順序というものが――」


 言い終わる前に、

 ずるり、と猫の体が抜けた。


 白猫は地面に転がり、

 魚の骨がぽとんと落ちた。


 雨音だけが残る。


 白猫は、ゆっくり起き上がった。

 前足で顔をぬぐい、

 濡れた毛を気にするように振る。


 そして、久遠を見上げた。


 その目は、鋭かった。

 完全に、人を見る目だった。


「……なるほど」


 白猫は言った。


「君、暇だろう」


「は?」


「暇な人間ほど、面倒なことに首を突っ込む」

 白猫は足元のゴミ袋を見る。

「わざわざ私を助けた」


「いや、普通だろ」


「普通ではない」

 即答だった。

「多くの人間は、見なかったことにする」


 久遠は、口をつぐんだ。


 白猫は続ける。


「君は今、余計なことをする余裕がない顔をしている」

「それでも、私を引き抜いた」


 そして、あっさり言う。


「つまり、自分に似ていると思ったんだろう」


 胸の奥が、少しだけざわついた。


「……勝手に決めるな」


「決めていない」

 白猫は首をかしげる。


 雨が、二人の間に落ち続ける。


 久遠は、しばらく白猫を見ていた。

 威厳はない。

 神秘性もない。

 毛並みはいいが、態度は最悪だ。


 それなのに。


(……退屈じゃない)


 その感覚だけが、妙に新しかった。


 白猫は、ひとつ小さく息を吐いた。


「……まあいい」


 そして、言う。


「私がこの惨状から回復するまで、

 君の生活圏を使わせてもらう」


「は?」


「……それ、『飼ってくれ』ってことか?」


「勘違いするな」

 白猫は尻尾を揺らす。

「私は“飼われる”のではない」


 雨の音に負けない声で、続けた。


「利用してやる。私がこの空腹と汚れから立ち直るまで、君の部屋を貸せ。その代わり、君に『私を近くで見る権利』をあげよう」


 久遠は、思わず笑った。


「……名前は?」


 白猫は、少しだけ間を置いた。


「レティだ」


 誇らしげでも、照れでもない。

 ただの事実の提示。


「白猫又、レティ」

「完全ではないが、それなりに厄介だ」


 雨は、まだ降っている。


 ゴミ集積所で、

 少し残念な神と、

 何も定義しない人間が向かい合っていた。


 久遠は思う。


(……こいつ、いつ逃げるか分からない)


 だが。


 それが、悪くなかった。


 レティは、半眼で言った。


「勘違いするな」

「私は、ここに“いる”だけだ」


 そして、淡々と続ける。


「明日もいるかどうかは、

 まだ決めていない」


 その言葉だけが、

 雨音の中で、やけに具体的に残った。

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