傾国のアルム 〜Areum the Femme Fatale〜

火之元 ノヒト

傾国のアルム (Areum the Femme Fatale)

Prologue : 傾国のアルム〜Areum the Femme Fatale〜

「その国に残った人間は、私の腿に文字を刻んだ五人の男だけでした」


 暗闇の中で、自分の大腿部に触れる。指先が、治癒したばかりのケロイドの段差をなぞる。熱い。まだ、熱い。

 規則的な形に盛り上がった肉は、脈打つ血管の真上にある。ドクン、ドクンと、心臓が送り出す血液が、その文字を内側から勃起させている。


 彼らは私を愛したのではない。彼らは私という空白を、自分たちの意味で犯したかったのだ。


 ──思い出す。最初のひと突きを。鋭利な刃先が、白い皮膚という膜に吸い込まれた瞬間を。


 ちくりとした痛みが脊髄を駆け上がり、脳幹を直接撫で回すような甘美な痺れへと変換される。肉が裂ける音は、濡れたシーツが擦れる音に似ていた。プツリと繊維が断ち切られ、そこから鮮やかな赤が溢れ出す。


 男の荒い息遣い。拡張した瞳孔。彼は私の肌にナイフを突き立てながら、果てていた。射精の代わりに、彼は私の肉に線を引いたのだ。


 私の肉体は、彼らにとっての羊皮紙であり、産道だった。

 彼らはそこに、正義を、祈りを、絶望を、ねじ込んだ。


 刃が進むたびに、彼らの脳内物質エンドルフィンを共有する。痛覚と快楽の境界線が溶解し、私の意識はドロドロに溶けた蜜となって、彼らの精神の隙間へと流れ込んでいく。


 ああ、なんと浅ましく、愛おしい生き物たち。

 言葉を持たぬ私の肉体に、言葉を刻み込むことでしか、世界と繋がれない哀れな種族。


 傷口が開く。

 まるで、誘うように。


 温かい血が大腿を伝い落ちる感触は、愛液よりもずっと濃密で、鉄の味がする生の奔流だ。私はその熱さにのぼせ上がり、腹の奥が収縮するのを感じる。

 

 もっと、もっと深く。

 あなたの国の、あなたの魂の、一番醜くて美しい部分を、私の肉体にぶちまけて。


 体が震える。これは、捕食される者のみが感じることを許された、抗いがたい法悦。


 文字が完成するとき、国は死ぬ。


 その瞬間の、断末魔のような悦楽を、私は何度でも味わうために生きている。

 暗闇で、私は濡れた唇を舐める。


 次の国は、どんな味がするのだろう。



[観測ログ:検体コード "Areum" / 記録者:V]


 対象の生体反応を確認。ドーパミンおよびオキシトシンの過剰分泌。自律神経系は交感神経優位に固定され、常時、性的興奮に近い覚醒状態を維持している。


 彼女は発情しているのではない。被虐という機能が、彼女の生存戦略としてシステムに組み込まれているのだ。


 美しいな。有機的な罠として、これほど完成された構造体はない。

 彼女のフェロモンは、鼻腔から吸入される化学物質ではなく、視覚情報として網膜に入力され、視神経を経由して前頭葉の理性をショートさせるウィルスだ。


 男たちは彼女を見るだけで、自らの遺伝子情報を――あるいは自らの社会構造を――彼女というブラックホールに注ぎ込みたくなる衝動に駆られる。


 都市という巨大な身体に、彼女という癌細胞を移植する。

 あとは、免疫系が暴走し、高熱を発して自壊するのを待つだけだ。

 

 私は万年筆を走らせる。インクの匂いが、夜の湿気と混ざり合う。


 さあ、次の実験場へ向かおう。

 言葉という壁で純潔を守ろうとする、童身の国へ。

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