わたしの愛しい瞳ちゃん

ねこじゃ・じぇねこ

プロローグ

1.

 あれは、一九九八年の八月の事だった。

 小学四年生の夏休み。ようやく二桁の年齢になって二か月足らずといったところだったわたし──百合野佳奈ゆりのかなは、これまでの人生の中で一番と言っていいほど葛藤していた。

 物心ついたころから聞きなれていた故郷のミュージックサイレン「アマリリス」の音色が聞こえてから、もう一時間以上経っている。


 生まれてこの方、わたしが暮らしている九州南部の夏は幸いなことに朝の訪れも夜の訪れもここよりずっと北にある大都会より少し遅い。おかげで十九時をまわっても、まだ辛うじて空は明るかった。とはいえ、直に暗くなってしまう。その前に帰っておいでというお母さんやお父さんとの約束を忘れたわけではない。


 わたしは叱られるのが苦手だ。いや、叱られるのが得意な人なんてそんなにいないと思うのだけれど、人一倍苦手だった。小さな頃から大人を怒らせてしまったと分かると気絶してしまうくらいには繊細な少女だった。だから、こんな遅くまで遊ぶなんて不良みたいなことを齢わずか十のわたしが出来るはずなんてないのだ。

 にもかかわらず、ブランコに座ったまま帰る事が出来なかったのには深い事情があった。

 さっきからずっと隣のブランコを静かにこぎ続けている級友がそこにいたからだ。


 その名は夢咲瞳ゆめさきひとみ。その当時から気さくに瞳ちゃんと呼んでいた彼女は不意に視界に入るとそのまま見惚れてしまうくらい可愛い女の子だった。

 お人形さんみたいな女の子というものが実在している事を人生で初めてわたしに教えてくれた人。それが瞳ちゃん。女の子って元来可愛い存在が本当に心から好きなのだと身をもってわたしに教えてくれた人。それが瞳ちゃんだった。


 けれど、それゆえに、放っておけなかった。

 世の中には悪い大人というものがいる。おとぎ話に出てくる悪者たちのように子どもたちを騙して酷いことをするのだ。酷い事が具体的にどんなことなのか当時は分からなかったけれど、とにかく不味い事なのだということは十歳のわたしも分かっていた。

 瞳ちゃんのような美少女なんてもっとも危険だろう。

 大好きな瞳ちゃんを悪い大人が狙っているかもしれない。そう思うと一人で置いて帰るなんてできなかった。


 そう、つまりこの状況。

 瞳ちゃんが帰る素振そぶりをなかなかみせなかったため、わたしもまた両親に叱られる不安に駆られつつも帰る事が出来ずにいたのだ。


 お家に帰らなくていいの?

 お父さんやお母さんは家にいないの?


 どこからか「アマリリス」の音色が聞こえて以降、そんな質問を何度も向けたのだけれど、瞳ちゃんの返事は曖昧だった。

 もしかしたら、家族の誰かと喧嘩でもしちゃったのかもしれない。

 だから、気まずいのかもしれない。

 そう思ったのだが、わたしだってまだ十歳の子どもだった。だとしても、それでは二人のこの先の明るい未来を手に入れるためにわたしはどうすればいいのか、その解決法が全く分からなくて、ただただ困惑したまま一緒にいることしか出来なかったのだ。


 わたしは無力だった。

 そうしている間にも、残酷なまでに秒針は進み、空はいよいよ暗くなっていく。

 十九時を過ぎてしまったら、さすがの夏の九州南部も刻一刻と夜らしくなってしまう。

 さてどうしよう。どうしたらいい。

 このまま盛大に、こっぴどく叱られてしまうのか。心配し尽くしたお母さんがきっと落としてくるだろう愛の雷の気配に内心怯えていると、ふと、瞳ちゃんに動きがあった。ブランコからぴょいと下りたのだ。


 お、とうとう帰るのかな。

 わたしは期待した。

 しかし、そうではなかった。

 瞳ちゃんはそのまま滑り台へと向かい、よちよちと愛らしく登って、そして一回だけ滑った。しかし、あまり楽しかったわけではないようで、憂鬱そうな表情を浮かべてため息を一つ。その面持ちすら愛らしかった。まるで絵画に描かれたモデルのようだった。

 本当に妖精みたいな子だ。

 そんな事を思っていると、瞳ちゃんはふとわたしへ視線を向けてきた。


「ねえ、佳奈ちゃん」


 甘くささやくような声が響く。顔も可愛ければ声も可愛い。この瞬間を切り取っても、瞳ちゃんが完璧な美少女だったということは、大きくなった今でも脳にこびりついている。


「来年の夏、本当に世界は滅んじゃうって思う?」


 深刻そうな顔と共にこちらに投げかけてきたのは、そんな質問だった。


 一九九九年の七の月。

 

それだけ言えば、特定の世代の人には分かるだろう。いや、あまりに有名な騒動だから、もしかしたらわたし達よりもずっと下の世代の人だってぴんと来るかもしれない。

 瞳ちゃんが言っていたのは、当時、わたし達が生まれてくるよりもずっと前から世間を騒がせてきた某予言の話である。

 何しろ有名だし。この時にしてみれば来年の話だ。と言っても、小学生の一年はビックリするほど長いので、まだ遠い未来のような気もしていたが、ともかくとして、世界が滅亡するかもしれないという予感はわたしだって怖かった。

 それでも、何処となく不安そうな瞳ちゃんの表情を見ていると、安心させてあげたくなったのだ。誰だってそうだろう。あんな美少女が目の前で怖がっていたら、不安を取り除いてあげたくなる。それが人間というものだ。たぶん。

 とにかく、そんな思いで、わたしは瞳ちゃんに答えたのだ。


「あの予言の事? あんなのフィクションだってお母さんが言っていたよ!」


 ちなみにフィクションの意味はこの頃に覚えたばかりだった。

 覚えたばかりの単語をさっそく用いて、ニコニコ笑いながらそう言ったのだが、瞳ちゃんから返ってきた笑みには、あまり力がこもっていなかった。


「うちのお父さんやお母さんも同じこと言っていた。でも、やっぱり不安なんだ」


 滑り台から立ち上がると、瞳ちゃんは後ろ手を組んで、いじらしく小石をける。真っ赤な靴に、軽くウェーブのかかった髪をまとめる赤いリボン。そのリボンとおそろいの赤いワンピースの色もまた目に焼き付いている。

 赤は瞳ちゃんの色。そんなイメージもあの頃からずっとわたしの心にあった。


「わたし、来月でやっと十歳になるのに、世界が滅んじゃったらつまんない。佳奈ちゃんとも一生会えなくなっちゃう。それが嫌なの」

「大丈夫。滅んだりしないよ。だってフィクションなんだから」

「でも……でもさ、佳奈ちゃん。もしも本当だったら、どうする?」


 なおも不安そうに訊ねてくる瞳ちゃんを前に、わたしは口ごもった。

 慰めて欲しい、わけではなさそうだ。

 さすがのわたしもその事に気づいて、少しだけ考えてから答えたのだった。


「本当だったら……どうしよう。怖いかも。だって止める方法なんて知らないし」

「そうだよね。怖いよね」

「瞳ちゃんだったらどうする?」

「わたしは……そうだね……願いを叶えたい」

「願い? どんな願い?」

「えっとね……えっと──」


 答えにくいものだったのだろうか。瞳ちゃんはそのまま斜め下へと視線を落とし、もじもじとし始めてしまった。その仕草も妖精みたいで可愛かったのだけれど、その可愛さを堪能する機会を奪うようにどんどん空が暗くなってきた。

 公園の外灯が明かりをともしはじめる。その人工的な光を浴びながら、静かに待っていると、瞳ちゃんはわたしに言った。


「ねえ、佳奈ちゃん。もしも、あの予言が外れてくれたらさ──」


 と、その時だった。

 公園の入り口からわたし達の名前を呼ぶ大人の声がしたのだ。振り返ればそこには、わたしのお母さんと瞳ちゃんのお母さんがいた。

 その後の記憶は曖昧にしか覚えていない。迎えが来てホッとしたことや、こっぴどく叱られてしょんぼりしたことくらいだ。

 なんといって瞳ちゃんと別れたのかも覚えていないし、あの時、瞳ちゃんがわたしに何を言おうとしていたのかも分からないままだった。


 夏休みが終わった九月。

 二学期が始まって早々、わたしは衝撃を受けた。

 瞳ちゃんが転校することになったのだ。

 突然の事だったようで、担任の先生もお別れ会を企画することができなかったらしい。

 引っ越しの当日が始業式の日で、クラスの皆に簡単な挨拶を終えると、瞳ちゃんはすぐに先生に連れられて教室を出て行ってしまった。

 突然のお別れにショックを受けて泣いてしまうお友達もいたが、わたしはというと泣く余裕すら奪われていた。

 ただ、先生と共に廊下へと出ていった瞳ちゃんを追いかけたのは覚えている。


「ねえ、瞳ちゃん!」


 その名を呼ぶと、瞳ちゃんはふと振り返った。

 赤いランドセルとトレードマークのような赤いリボンのついたバレッタが目に焼き付いた。

 わたしの顔を見ると、瞳ちゃんは少し悲しそうに笑って、控えめに手を振った。それが、瞳ちゃんとのお別れだった。


 赤は瞳ちゃんの色。瞳ちゃんの色だった。

 その日から、瞳ちゃんがわたしの視界からいなくなってしまうと、まるで、失恋でもしたかのように、わたしの心はしなびてしまった。

 瞳ちゃんを廊下で見送ったあの日からずっと赤という色がわたしの世界から抜け落ちてしまったような気がする。

 もっと仲良くなりたかったし、何て言いたかったのかを聞けばよかった。

 そんな後悔のまま、小学四年生の残りの日々は過ぎていって、あっという間に一九九九年の夏休みになっていた。

 世界は滅亡せず、当たり前のように続いた。

 そしてそこは、赤色だけが抜け落ちてしまったままの、わたしにとっては味気ない未来でもあった。

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