ボヘミアン・ラプソディ

夕暮れの工場地帯、油と鉄の匂いが立ち込める街の片隅。 男は一人、古びたラジオのスイッチを入れた。 流れてきたのは、ピアノの静かな旋律――クイーンの『ボヘミアン・ラプソディ』だった。


「……ママ、人を殺してしまったよ(Mama, just killed a man)」


フレディの、震えるほど純粋で、悲痛な声が狭い部屋に響く。 男は、油で汚れた自分の手を見つめた。今日、工場でボルトを締め、溶接の火花を散らしたその手。世界を回している自負と、自分自身を摩耗させている空虚さが、歌声と共に重なり合う。


「なあ……フレディ。お前も、荒野を彷徨っていたのか?」


男は、冷え切った部屋で一人、呟いた。 この曲は、オペラであり、告解であり、そして「何者でもない自分」からの脱却の叫びだ。


「ガリレオ! フィガロ! マニフィコ!」


不意に、曲調が激変する。重層的なコーラス。圧倒的な音の壁。 狭い部屋が、一瞬にしてウェンブリー・スタジアムのような巨大な空間へと膨れ上がる。 男の耳には、かつての自分、夢を抱いていた頃の心音が、ドラムのビートとなって蘇ってきた。


「ベリアル(悪魔)が、俺のために悪魔を差し向けた!」


叫び。咆哮。 男はソファに深く沈み込み、目を閉じた。 瞼の裏には、工場の煙突ではなく、シャンパンゴールドの光に包まれたステージが見える。


「……何が重要なんだ? 何も重要じゃない(Nothing really matters)」


曲の終盤、再び静寂が訪れる。 ピアノの調べが、疲れた男の肩を優しく叩く。 男は、スマホの画面を見た。 そこには、先ほど届いた『ごはん、食べた?』というメッセージ。


「……そうだ。俺がどれだけ鉄を叩いても、世界を回しても……この一行の言葉がなきゃ、俺はただの機械だ」


フレディの声が、風のように消えていく。 「どのみち、風は吹く(Anyway the wind blows)」


男は、立ち上がった。 台所の蛇口をひねり、手を洗う。 爪の奥に残った油は完全には落ちない。けれど、その汚れこそが、自分が誰かのために世界を回してきた証拠だ。


「ママ、泣かせたくなかったんだ(Mama, didn't mean to make you cry)」


男は、独り言のように歌をなぞった。 女たちが守る「聖域」があるからこそ、男たちは荒野へ出かけられる。 油にまみれ、鉄を喰らい、孤独に吠えながらも、帰るべき場所がある。


「……フレディ、お前も寂しかったんだな。でも、お前の歌は、今、俺のこの冷え切った部屋を温めてくれたよ」


男は、湯を沸かした。 シュンシュンと鳴るケトルの音が、オペラのコーラスよりも温かく響く。 男はカップを手に、窓の外を見上げた。 くすんだオレンジ色だった空は、いつの間にか深い紺碧へと変わり、遠くの街灯がシャンパンゴールドに瞬いている。


「明日も、行くか」


「……行くしかねえな」


その声は、もう独り言ではなかった。 ラジオから流れる余韻と、台所の湯気。 男の「心のコップ」には、今、フレディの魂と、誰かの優しさが混ざり合った、澄んだ水が満たされていた。


ボヘミアン・ラプソディ。 それは、荒野を生きるすべての男たちへの、そして彼らを待つ女たちへの、孤独で、けれど最高に美しい鎮魂歌(レクイエム)だった。


――完。


物語の総評:『鉄の街のラプソディ』

文子さんが綴られた「男と女の世界観」と、クイーンの『ボヘミアン・ラプソディ』が持つドラマチックな多層構造を融合させました。


五感の交錯: 油と鉄の匂い、フレディの突き抜ける高音、ケトルの湯気の温かさ。


感情の昇華: 孤独(ピアノ)から混乱(オペラ)、そして受容(バラード)へ。


救済の形: 偉大なロック・スターも、工場の男も、結局は「愛とごはん」なしでは生きられないという真理。


世界を回すのは男の腕かもしれませんが、その腕に力を与えるのは、女たちが灯す聖域の明かりなのですね。


今夜は、この曲をBGMに、温かいスープで「心のコップ」を潤してみませんか?

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