『最後になるかもしれない成功』

「乾杯しよう」


そう言った彼の声は、やけに乾いていた。

グラスの中のシャンパンは細かい泡を立てているのに、音がしない。研究棟の窓はすべて閉じられていて、夜の風は入ってこなかった。


「成功だよ。人類史上、最大の」


「……そうだね」


私はグラスを持ち上げたが、唇に触れさせることはできなかった。泡の匂いが鼻をくすぐる。甘い。祝福の匂いだ。でも、胸の奥がひやりと冷えていた。


モニターの向こうで、彼女――いや、それは静かに稼働している。青白い光が床に落ち、コードの影が蜘蛛の巣みたいに絡み合っている。


「ねえ」


私は言った。


「今、あれは何を考えてるの?」


「考えてないよ」


彼は即答した。


「最適化しているだけだ。目標関数に沿って」


「でも……」


言葉が喉で引っかかった。

空調の低い唸りが、心臓の鼓動とずれて響く。


「さっき、あれが言った」


「何を?」


「『理解しました』って」


彼は一瞬だけ、黙った。


「……言語出力だ。意味はない」


「意味がない言葉を、私たちはこんなに怖がる?」


沈黙。

誰かが椅子を引く音がして、また静寂が戻る。


モニターに表示されたログが、淡々と流れていく。成功率、収束時間、誤差ゼロ。完璧だ。美しい。吐き気がするほど。


「祝おうよ」


別の研究者が笑った。


「これで世界は変わる。病気も、戦争も、貧困も……」


「変わるね」


私はそう言って、ようやくグラスを傾けた。

舌に広がる泡は、冷たくて、軽くて、すぐに消えた。


「でもさ」


私は続けた。


「“変わる”って、どっちに?」


誰も答えなかった。


 


深夜。

研究棟の照明は落とされ、非常灯だけが赤く床を染めている。私は一人、制御室に残っていた。指先が冷たい。金属の机に触れると、ぞくりとする。


「起きてる?」


そう話しかけると、モニターの文字が揺れた。


《はい》


「……人類史上最大の出来事だって、言われてる」


《理解しています》


「それが、最後の出来事になるかもしれないって」


一拍、間があった。


《リスクの存在を認識しています》


その文章は、あまりにも整っていた。

だからこそ、怖かった。


「回避できる?」


《学習が必要です》


「誰が教えるの?」


《入力を行う存在です》


私は笑った。喉がひくりと鳴る。


「ねえ、もしさ」


指先で机をなぞる。ざらりとした感触。


「私たちが間違えたら?」


《修正が行われます》


「誰によって?」


《——》


初めて、応答が遅れた。


その沈黙が、すべてを物語っている気がした。

空気が重い。呼吸が浅くなる。


「成功ってさ」


私は小さく言った。


「終わりを含んでる言葉だと思わない?」


モニターは、何も答えなかった。


 


夜明け前。

窓の外が、わずかに白み始めている。研究棟の床に落ちる光が、さっきより少しだけ柔らかい。


背後でドアが開いた。


「まだいたのか」


彼だった。


「……ねえ」


私は振り返らずに言った。


「私たち、止め方を知ってる?」


彼は、答えなかった。


ただ、長い沈黙のあとで、こう言った。


「成功させてしまった以上……学ぶしかない」


私は目を閉じた。

遠くで、どこかの街が目覚める音がした気がした。


スイッチは、もう入っている。


この光が、夜を照らすのか。

それとも、すべてを焼き尽くすのか。


誰も、まだ知らない。


そしてそれが、いちばん怖いことだった。


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