第7話

絶望10日目・夜 公権力からの不在着信


 赤色エリアでの死闘を終え、俺がアパートのあるブロックに戻ってきた頃には、すでに日はとっぷりと暮れていた。

 全身の筋肉が悲鳴を上げている。

 MP(精神力)の枯渇による頭痛が、こめかみを鈍く叩いている。

 だが、その疲労感すらも心地よかった。今日の成果――レベル20への到達と、新スキル『影操作』の実戦投入――が、確かな重みとして身体に残っているからだ。


 路地裏の影から抜け出し、いつものアパートの階段を登る。

 カンカン、という鉄骨の響きが、俺を非日常から日常へと引き戻してくれるスイッチだ。


 203号室の前。

 俺はドアノブに手をかける前に、貼り付けておいた画用紙のチェックをした。

 『立入禁止』の警告文と、魔除けの牙。

 破られた形跡はない。ピッキングの痕跡もなし。

 どうやら留守中の招かれざる客はいなかったようだ。


「……ん?」


 鍵を開けようとした俺の視線が、ドアポストの隙間に挟まった一枚の紙切れに吸い寄せられた。

 チラシではない。

 上質で厚みのある紙。

 俺はそれを引き抜き、スマートフォンのライトで照らした。


 そこには見覚えのある旭日章(警察のマーク)と共に、事務的なフォントでこう印字されていた。


【生存確認および安否情報の登録について】

 警視庁〇〇警察署・地域課

 現在警察では管轄内の生存者リストを作成しております。

 本状を確認された方は、速やかに下記QRコードより『ゾンビハンター・アプリ』経由にてご連絡ください。

 皆様の安全確保と、今後の物資配給、犯罪抑止のための重要なネットワーク構築にご協力をお願いいたします。


「警察か……」


 俺は紙切れを指で弾いた。

 マンションの門番から聞いてはいたが、本当に巡回に来ていたとは。

 文面は丁寧だが、要するに「生きてるなら住民登録しろ、さもなくば管理できないぞ」という、行政特有の圧力を含んでいる。


 部屋に入り、何重ものロックを掛ける。

 リュックを放り出し、とりあえず冷蔵庫(電気はまだ生きている)から冷えた水を取り出して一気飲みする。

 乾いた細胞に水分が染み渡る。


 さて、どうするか。


 俺はダイニングテーブルに座り、警察からの手紙を広げた。

 無視するという手もある。

 今の俺は自力で衣食住を確保し、防衛する力を持っている。警察の保護など必要ない。

 むしろ情報を握られることで、「徴用」されたり行動を制限されたりするリスクの方が怖い。


 だがここで無視を決め込めば、「生存者不明」あるいは「非協力的な不審者」としてマークされる可能性がある。

 それはそれで面倒だ。

 社会が少しでも機能を取り戻そうとしているなら、その「名簿」に名前を載せておくことは将来的な保険になる。


「……とりあえずフレンド登録だけしてみるか」


 俺はスマホを操作し、紙面のQRコードを読み込んだ。


『プレイヤー【警視庁・〇〇署窓口】をフレンド登録しました』


 アイコンはパトカーの画像。

 なんとも色気のない、しかし信頼感だけはあるアカウントだ。

 俺は少し考え、通話ボタンをタップした。


 プルルルル……。

 呼び出し音は短い。


『はい、こちら〇〇署、生存者対応係です』


 スピーカーから聞こえてきたのは、酷く疲れた、しかし芯の通った中年男性の声だった。

 背後からはキーボードを叩く音や、電話のベル、怒号のような指示の声が微かに漏れ聞こえてくる。

 向こうも修羅場の真っ只中らしい。


「あー、もしもし。ポストに手紙が入ってた者ですが」


『! 連絡ありがとうございます。確認のため、手紙が入っていたご住所とお名前をお願いできますか?』


 声のトーンが少し上がった。

 生存者からの連絡は彼らにとっても「希望」の一つなのかもしれない。


「〇〇町二丁目のコーポ橋場203号室です。名前は橋場洋太」


 俺は素直に答えた。

 ここで嘘をついても、住民基本台帳と照合されればすぐにバレる。


『確認します……はい、橋場洋太様ですね。26歳、独身……ありがとうございます。生存確認、完了いたしました』


 カチャカチャ、とキーボードを叩く音が聞こえる。

 俺のデータが「死亡・不明」から「生存」へと書き換えられた音だ。


『ご無事で何よりです、橋場さん。お怪我はありませんか? 食料や水は足りていますか?』


「ええ、まあなんとか。自力で確保できてます」


『それは素晴らしい。……現状、警察としても全戸への配給は困難でしてね。自活できる方がいらっしゃるのは助かります』


 刑事――おそらく担当者は警察官だろう――の声に安堵の色が滲む。

 警察署自体が避難所と化し、物資不足に喘いでいるのだろう。

 そこに「俺の分も寄越せ」という要求が来なかっただけで、彼にとっては朗報なのだ。


「それで、連絡したのは登録だけが目的じゃないんですが。……手紙に書いてあった『不審者情報の共有』っていうのは?」


 俺は本題を切り出した。


『ああ、そうでしたね。今、警察では生存者同士のネットワークを構築中でして。都内の各署と連携し、危険人物や犯罪集団のブラックリストを作成・共有しています』


「へえ、結構広範囲で繋がってるんですね」


『ええ。無線も電話も不安定ですが、このアプリのチャット機能は異常なほど安定していますからね。皮肉なことですが、この殺人ゲームのシステムを利用させてもらっています』


 警察がゲームアプリを使って治安維持を行う。

 まさにニューノーマルだ。


『現在、橋場さんがお住まいの〇〇町周辺ですが、在宅確認が取れている地域には今のところ目立った武装集団や強盗の報告はありません。比較的、治安は維持されています』


「それは良かった。自警団みたいなのもいるみたいですしね」


『ええ、彼らとも連携を取っています。……ですが』


 担当者の声が少し低くなった。


『駅の向こう側……大型ショッピングモール『イオン』周辺については、要注意エリアとして指定しています』


 来た。

 門番のG-Kも言っていた話だ。


「イオンですか。噂は聞いてます。かなり大きな集団がいるとか」


『ええ。元々は避難民の集まりだったんですが、今はある種の「武装勢力」と化しています。……彼らについては警察にも多数の通報が寄せられていましてね』


「通報? どんな?」


『「しつこい勧誘」です。通りがかった生存者を軟禁し、「仲間になれ」と強要する。断れば武器や食料を「通行税」として巻き上げる。……実質的な強盗行為です』


 やっぱりか。

 「みんなで生き残ろう」という美名の下に行われる組織的な搾取。

 数が増えれば、それを養うためのリソースが必要になる。

 手っ取り早いのは、外部からの略奪だ。


「警察は介入しないんですか? 逮捕とか」


『……痛いところを突きますね』


 担当者は苦々しげに言った。


『何度か署員を派遣し、警告はしました。ですが彼らは聞く耳を持ちません。「我々は独自のルールで運営している」「警察に守る力がないなら口を出すな」と。……現状、我々の戦力では数百人規模の籠城拠点を制圧するのは不可能です』


 数百人。

 予想以上に膨れ上がっている。

 それだけの数が固まっていれば、警察とて迂闊に手出しはできない。

 下手に刺激して武力衝突になれば、大勢の死人が出る。


『法的な拘束力も今の状況では形骸化していますからね。……悔しいですが、我々にできるのは「近づかないように」と注意喚起することだけです』


 無力感。

 電話越しに、彼の拳が机を叩くような気配を感じた。

 彼らもまた、正義感と現実の狭間で苦しんでいるのだ。


「分かりました。別口でその情報は聞いてましたが、警察のお墨付きなら確実ですね。注意します」


『賢明な判断です。橋場さん、貴方のような単独で動ける方は、彼らにとって格好の勧誘ターゲットになり得ます。決して近づかないように』


「肝に銘じます」


『ありがとうございます。では、こうした不審者情報やエリアごとの危険度情報は定期的――基本は一週間ごとにメッセージで共有します。何か異常があれば、このアカウントに通報してください』


「了解です。そちらもお気をつけて」


『ええ、お互いに生き残りましょう。……では』


 プツリ。

 通話が切れた。


ゲーム的思考による現状分析


 俺はスマホをテーブルに置き、深く息を吐いた。

 部屋の中に再び静寂が戻ってくる。


 数百人の武装勢力、イオン・ギルド(仮称)。

 強制勧誘と略奪。

 警察の警告を無視する独立国家気取り。


 典型的な「世紀末の悪役」だ。

 だがこのゲーム(現実)においては、彼らこそが「勝者」に近い存在であることも否定できない。

 数を集め、拠点を固め、物資を独占する。

 戦略としては間違っていない。倫理を捨てさえすれば。


「……なるほど。イオンは聞いてた通り、厄介勢がいるみたいだな」


 俺は冷蔵庫から、コンビニで回収した真空パックの焼き鳥を取り出し、齧り付いた。

 冷たい肉の味が、思考を冷静にさせる。


 今の俺の立ち位置(ポジション)を確認する。

 レベル20。

 スキルは『隠密』『鑑定眼』『影操作』その他諸々。

 対人戦の経験もあり、対モンスター戦では赤色エリアでも無双できる。


 正直に言えば、俺一人でその「イオン・ギルド」を壊滅させることも、不可能ではないかもしれない。

 影を使って夜闇に紛れ、歩哨を始末し、リーダーの寝首をかけば組織は崩壊する。

 レベル差があるなら、一般人が何百人いようと俺にとっては「動くカカシ」でしかない。


「……いや、今の俺なら倒せるかも? とか考えてる時点で、俺も大概だな」


 俺は自嘲した。

 力がつけば、解決策を「暴力」に求めがちになる。

 だがそれは、ゲーマーとしては二流の思考だ。


「敵対するのは悪手だな」


 理由の一つは、警察の存在だ。

 彼らは今、無力かもしれないが、ネットワークを構築し情報を蓄積している。

 もし俺がイオンで虐殺を行えば、その情報は瞬く間に共有されるだろう。


 『橋場洋太は危険人物』。

 『大量殺人鬼』。


 そうなれば世界が復興した時、俺に居場所はない。

 一生、指名手配犯として生きることになる。


 そしてもう一つ、システム的な理由。


「レッドPK扱いも嫌だしな……」


 『ゾンビハンター』アプリのヘルプには、対人戦(PvP)に関する記述がある。

 「合意の上でのデュエル」はペナルティなし。

 だが「一方的な殺害(PK)」を繰り返すと、プレイヤーネームの色が赤くなり、『賞金首(Bounty)』として全プレイヤーに位置情報が公開されるペナルティがある――らしい。

 (チャットの噂レベルだが、海外サーバーでは既に「レッド・プレイヤー狩り」が流行っているという話だ)


 賞金首になれば、街を歩くだけで全プレイヤーから狙われる。

 ショップの利用が制限される可能性もある。

 たかだか一つのショッピングモールを制圧するために、今後のゲームプレイ全てをハードモードにする必要はない。


「近寄らない方が無難だな……」


 結論は出た。

 君子危うきに近寄らず。

 イオンには近づかない。

 彼らがこちらに攻めてこない限りは、相互不干渉(スルー)だ。


 俺は焼き鳥を完食し、空になったパックをゴミ箱へ投げ入れた。


深夜のスキルメンテナンス


 腹も満たされ、方針も決まった。

 寝る前に、もう一つやっておくべきことがあった。


 今日の戦闘で酷使した『影』のメンテナンス――というか、操作精度の確認だ。


 俺は部屋の電気を消した。

 窓から差し込む月明かりが、家具の影を長く伸ばしている。

 最高の練習環境だ。


「出てこい」


 意識を向けると、テーブルの下の影がぬるりと這い出してきた。

 戦闘中は興奮していて細かく観察できなかったが、こうして静かな場所で見ると、その質感は不思議なものだった。

 液体でもあり、気体でもあり、触れると冷たい金属のようでもある。


 俺は影を指先で操り、テーブルの上の空き缶を持ち上げさせてみた。

 影が触手のように伸び、空き缶を優しく包み込む。

 持ち上がる。

 揺れない。安定している。


「パワー制御は問題なし。次は……形状変化の維持」


 俺は影を変形させ、ナイフの形を作らせた。

 黒いナイフ。

 それを空き缶に突き立てる。


 プスッ。


 アルミの薄いボディを貫通した。

 切れ味は本物のナイフに劣るが、貫通力はある。


「ふむ……遠距離からの暗殺(アサシネーション)には十分使えるな」


 だが維持時間が課題だ。

 部屋の中でリラックスしている状態なら数分は維持できるが、戦闘中のような高ストレス下では数十秒が限界だろう。

 MPの自然回復量と消費量のバランスを見極める必要がある。


 俺はしばらくの間、影で知恵の輪を解くような地味で繊細な操作練習を続けた。

 派手な必殺技よりも、こういう地味な技術がいざという時に生死を分けることを、俺はゲーム経験から知っている。


 ふとスマホが震えた。

 深夜の定期ログインボーナス通知かと思ったが、違った。

 フレンド登録したばかりの『リナ』からのメッセージだ。


『リナ:洋太さん、生きてる? 今日の「ランキング」見た?』


 ランキング?

 そんな機能あったか?


 俺は慌ててアプリのメニューを確認する。

 あった。『地域別ランキング』。

 タップすると、俺の住む地域のプレイヤーランキングが表示された。


【〇〇地区・週間獲得ポイントランキング】

 1位:G-K(85,000 ZP)

 2位:AEON_Leader(72,000 ZP)

 3位:NoName(68,000 ZP)

 ……

 9位:YOTA(42,000 ZP)


「……9位?」


 思わず声が出た。

 ソロで、しかも今日から本気出しただけで、もうトップ10入りしている。

 1位のG-Kは、あのマンションの門番か。組織票(ポイントの集約)をしている可能性がある。

 2位のAEON_Leader……これがイオンのボスか。

 3位のNoNameは、おそらくリナだろう。あいつ、相当稼いでるな。


『YOTA:今見た。9位だったわ』

『リナ:やっぱり! 急に順位上がってきたから洋太さんだと思ったw ちなみに私3位ね! 抜けるもんなら抜いてみな!』

『YOTA:煽るねえ。まあマイペースにやるよ』


 スタンプが返ってくる。

 何気ないやり取り。

 だがこのランキング機能は厄介だ。

 名前が売れる。

 「YOTA」というプレイヤーが、この地域でトップクラスの実力者(あるいはポイント保持者)であることが周知されてしまう。


「目立ちすぎるのも考えものだな……」


 イオンのような集団に、「あいつを狩れば大量のポイントが手に入る」と思われたら面倒だ。

 あるいは「勧誘リスト」の最上位に入れられるかもしれない。


 俺は設定画面を開き、『ランキングへの名前表示』を『匿名希望(NoName)』に変更した。

 順位は変わらないが、名前は隠せる。

 リナにはバレているが、他の有象無象には「謎のソロプレイヤー」として認識させておく方が安全だ。


「……用心、用心」


 俺はスマホを充電器に繋ぎ、ベッドに倒れ込んだ。

 布団の柔らかさが、疲労した背中を優しく受け止めてくれる。


 天井を見上げる。

 見慣れたシミがある。


 世界は変わり果てた。

 ゾンビが徘徊し、警察が機能不全に陥り、ショッピングモールが独立国家になった。


 だが俺はまだここで、こうして生きて、明日の攻略を考えている。

 恐怖はない。

 あるのは、明日への程よい緊張感と、自身の成長への期待だけ。


「……おやすみ、クソゲー」


 俺は目を閉じた。

 意識は瞬時に落ちた。

 夢は見なかった。

 ただ深い闇の中で、俺の影だけが静かに、主人の眠りを守るように揺らめいていた。

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