第2話 雨の匂い、珈琲の薫り
僕の暮らす、単身者用のワンルーム。
一人暮らしを始めて三ヶ月弱が経つが、常にそれなりに綺麗にしているつもりだ。これは他人を上げるためというより、僕の性格に由来するものだと思う。
玄関の脇に洗濯機、その向かい側には小さな靴箱。部屋へと続く短い廊下には、手狭ながらキッチンが設置されている。そこから振り向けば、トイレのドアと浴室のドアが別々に並んでいた。
風呂トイレ別は、部屋探しをするうえで僕が唯一こだわった部分でもある。
なにが悲しくて、便器を眺めながら入浴しなければならないのか。スペースの兼ね合いもあるのだろうが、これを日本に持ち込んだ人の気がしれないと常々思っている。
一応、僕なりの合理性と快適さを詰め込んでみた、六畳一間の生活空間。そこにすっきりと収められた必要最低限の家具や物。
各種取り揃えられた趣味の珈琲器具だけが、わずかに異彩を放つ、殺風景な部屋。
だが今は、少しだけその様相を異にしていた。
「……とりあえず、上がってください」
僕が促すと、背後で気まずそうに空気が揺れる。
靴を脱ぎ、彼女が廊下に足を踏み入れた瞬間、フローリングに水が染みた。服や髪からも雫がこぼれ落ち、床に水玉模様を描いていく。
その様を見て、僕は胸の奥がチクリとするのを感じた。嫌悪感ではない。僕一人の領域、いわばテリトリーに異物が侵入したという、純粋な事実に対する反応だった。
「あ……わりぃ。床、汚しちまうな」
彼女もそれに気が付いたのか、申し訳なさそうに肩を縮めた。
「構いませんよ。僕も似たようなものですし、あとで拭けばいいだけなので」
「そ、そうか……すまん」
感情を交えずに告げると、彼女はますます居心地の悪そうな顔をする。それを意識的に無視して、僕は浴室を指差した。
「まずはシャワーを浴びてきてください。その間に、タオルと着替え、用意しておきますから」
「いやっ、そこまでしてもらうわけには──」
「いいですから。家まで連れてきたのに、風邪を引いて寝込まれたら、僕の方が後味が悪いじゃないですか」
いよいよもって、僕の頭は致命的なバグに侵され始めたらしい。浴室は、部屋よりもプライベートな空間だ。そこに他人を入れようとしている。
ただ、僕は少しばかり意固地になっていたのかもしれない。彼女から、アホだと言われたことに対して。
確かに、傘だけ渡して済ますのは思慮に欠けていた。これは僕の落ち度であり、反省すべき点だ。
ならば、徹底的にやるまでのこと。
風邪の予防にはまず、身体を温めることが先決だ。その後に、十分な休息。
じっと見つめると、彼女は居心地が悪そうに視線を揺らした。
「……覗くんじゃねぇぞ?」
「覗きませんよ。僕も犯罪者にはなりたくないですから」
「ちっ……わーったよ。お言葉に甘えてやる」
「そうしてもらえると助かります。では、僕は部屋の方に行ってますので」
ちっぽけなこのワンルームには、脱衣場なんて上等なものは備わっていない。視覚を遮るためには、部屋へと移動してドアを閉ざす他なかった。
普段は開けっ放しにしているドアも、たまには役に立つらしい。廊下から部屋の中まで続く濡れた足跡を放置して、僕はチェストの引き出しを開けた。
そこからバスタオルを一枚取り出し、髪の湿気を拭っていく。こんな事態になっては、シャワーを浴びる予定はキャンセルせざるを得ない。
家族である母さんならいざ知らず、初対面の女性が使った直後の浴室に踏み込む勇気を、あいにく僕は持ち合わせていなかった。
髪がマシになったら、次は着替え。人の心配をして、自分が倒れたら元も子もない。幸いにして、下着にまでは被害が及んでいなかったので、濡れて重くなった服を床に脱ぎ捨て、手早く部屋着のスウェットの上下を身に着けた。
続いて、タオルと部屋着をもう一セット用意する。これがなければ、彼女も困ってしまうだろう。
廊下に出ると、浴室からシャワーの音が漏れ聞こえてくる。雨とは違う水の音に、なぜか胸が騒いだ。
この中に、人がいる。
僕ではない誰かが、僕だけの生活空間の中にいる。
引き入れたのは、間違いなく僕だ。頭では理解しているはずなのに、心がそれを受け入れられていない。けれど、シャワーの音が否応なくその現実を突き付けてくる気がして、僕は思わず喉を鳴らした。
手には、彼女のためのタオルと着替え。これを渡さなければならない。僕は努めて事務的な足取りで浴室の前に立つと、ドア越しに声をかけた。
「……あの、着替え持ってきました」
シャワーの音が途切れ、一瞬の静寂。耳の奥が痛くなる。自分の鼓動が、やけに大きく聞こえる。
やがて、湿気に反響するようなくぐもった声が返ってきた。
「……あぁ、わりぃな。そこ置いといてくれ」
「わかりました。バスタオルも一緒に置いておくので、使ってください」
「ん、あんがとな」
会話は、それで終わった。
けれど、声も音も筒抜けな薄いドア一枚隔てた向こう側に裸の他人がいるという気配だけで、僕の心が乱されるには十分だった。
なんであんなことを言ってしまったのかと思っても、時すでに遅し。後悔先に立たずとは良く言ったものだ。
落ち着かない。
指先が冷たくなり、かすかに震えている気がする。
こういう時は、あれしかない。
僕はキッチンで電気ケトルに水を汲み、逃げるように部屋へと戻る。お湯を沸かしている間に、棚の珈琲セットを手に取り、机の上に並べていく。
豆とコーヒーミル、ドリッパーとペーパーフィルター、それからサーバーとコーヒーカップ。人を招いているのに自分の分だけを用意するのが心苦しくて、マグカップをもう一つ並べた。
二杯分の豆を計量して、ミルに投入。
量は違えど、いつもの儀式。
心の平穏を守るためのルーティンワーク。
ゴリゴリ、ゴリゴリ。
硬い豆を挽く感触と、静かな重低音が手から伝わる。しだいに漂い始める香ばしい薫りが、鼻腔をくすぐる。
深く焙煎された、苦みの強い重厚感のある匂い。それが部屋に満ちていくにつれて、僕の心臓は徐々に平時のリズムを取り戻していった。
ケトルからは湯気が上がり始め、準備は最終段階に入る。サーバーに乗せたドリッパーにフィルターをセットして、豆を入れる前にまずは湯通し。
こうすることで、紙臭さが抜けるらしい。
サーバーに落ちたお湯は、サーバー自体とカップを温めるのに使ったら用済みだ。
ここまでしたら、ようやく豆の出番。細かく挽かれた豆をフィルターに入れ、表面を平らにならす。決して押し付けたりはせず、優しく。
湯温は、沸騰直後よりも少し置くのがベスト。
そのタイミングを見計らっていると、閉ざしていた部屋のドアがゆっくりと開いた。
「……ん? なにしてんだ?」
無遠慮に部屋に上がり込んでくる声。振り向くと、そこには奇妙な生き物が立っていた。
僕が貸したスウェットは、彼女には明らかに大きすぎた。袖からはちょこんと指先が覗く程度で、ズボンもダボダボを通り越して裾が床に擦っている。
雨に濡れていた銀髪はタオルドライされて、無造作に広がり、どこか幼い印象を与えていた。
さっきまでの野良猫のような鋭さはすっかり鳴りを潜め、今の彼女は、拾われてきたばかりの捨て猫みたいだ。
さっきはあれほど心が乱れたのに、なぜか今は少しだけ落ち着いている。それはたぶん、彼女がその身に僕と同じ気配を纏ったから。
スウェットは僕のもの。そして、彼女から漂ってくるのは、僕が普段使っているシャンプーの匂い。
「珈琲を淹れようと思って。もうちょっとだけ待っていてください」
髪をタオルで乱暴に拭きながら歩み寄ってくる彼女に、僕は小さく笑みをこぼした。
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