第2章 第4話:アルファ誕生──電脳側の奇跡

 雑居ビルの三階。

 夜の廊下は照明が半分死んでいて、老朽化した配管が天井から剥き出しのまま垂れている。その暗がりの中で、ギユウの自室だけが、はっきりと灯りをこぼしていた。


 扉の向こうは狭い。

 だが、息苦しさはない。


 木屑の匂いと、金属油の匂い。

 長い時間をかけて染み込んだそれらが混ざり合い、部屋そのものが「作業の途中」であることを主張している。片付けられないのではない。片付ける理由が、ここにはなかった。


 部屋の中央で、ギユウは小型カラクリの頭部を両手で支えていた。


 手のひらに収まる程度の木製フレーム。

 軽い。だが、内部に仕込まれた構造の密度が、単なる玩具ではないことを伝えてくる。


 胴体部には、彼がようやく手に入れた**発条石(ゼンマイセキ)**が収められている。

 回転軸はまだ固定途中で、制御も完全ではない。それでも、形にはなりつつあった。


 顔の位置には、古びた木製のメガネ。

 おばあがくれたものだ。


 墨脈はほとんど薄れているが、完全には消えていない。

 古代木材特有の、説明のつかない“通り道”が、かすかに残っている。


 そのメガネに繋がるように、作業用PCから診断ケーブルが伸びていた。

 墨脈とデジタル。

 ギユウにとっては、珍しい組み合わせではない。ただ、今日は少し、感触が違っていた。


 細い工具を置いた、その瞬間だった。


 ――ジジッ。


 部屋の電灯が、一度だけ震えた。


 明確な揺れではない。

 音も、風も、地震もない。

 それでも、確かに「何かが通った」と感じる種類の違和感だった。


 ギユウは顔を上げる。

 耳が、わずかに痛んだ。


(……今の、なんや)


 街のどこかで起きた異変。その余波。

 理屈ではそう理解できる。だが、納得する前に、異常は目の前で起きた。


 木製メガネが、かすかに震えた。


 他の部品は、何も反応していない。

 発条石も、回っていない。


 それなのに、メガネの墨脈だけが、外から来た何かに共鳴するように、淡く脈打った。


 その瞬間、ギユウは直感した。

 これは“信号”だ、と。


 しかも、普通の制御信号じゃない。


 古代の木材が持つ墨脈構造が、街の地下深くから届いた不可視の波を受け取り、それを歪めてしまった。

 意味のないノイズだったはずのものが、ここでは「命令」に近い形へ変質している。


 ――危ない。


 そう思った時には、もう遅かった。


 カチリ。


 歯車が噛み合う音が、理由もなく響いた。


 発条石は、まだ動力を流していない。

 それなのに、ギユウの指先は感じ取っていた。


 内部で走る、あってはならない振動。


 信号が、逆流している。

 木製メガネから、墨脈を伝い、回路の理を無理やり書き換えている。


「……なんや、この音」


 背筋に、冷たいものが走る。

 技術者としての本能が、全力で警鐘を鳴らしていた。


 止めなあかん。


 そう判断した瞬間――


 ギュルルルルッ!!


 工房が喰われるような轟音が炸裂した。


 発条石が制御を失い、回転数が跳ね上がる。

 木製フレームがきしみ、金属部品が悲鳴を上げる。


 暴走。

 それも、単なる故障じゃない。


 ギユウは考えるより先に、身体を投げ出していた。

 止める。それしか頭になかった。


 両手を、内部へ突っ込む。


 ――その瞬間。


 バギィッ!!


 破裂音と同時に、右手に凄まじい衝撃が走った。

 重機で殴られたような感覚。


 痛みは、ない。


 ただ、右手の先にあった“重さ”が、消えた。


 視線を落とす。

 床に転がる赤い塊。

 断面から噴き出す赤。


 ようやく、理解が追いつく。


「――っ、腕……?」


 声になる前に、左側からも衝撃が来た。

 弾けた破片が、左足首に突き刺さる。


 肉と腱が断たれる感触。

 支えを失い、身体が宙に浮いた。


 次の瞬間、床に叩きつけられる。


 音が、遠ざかる。


 薄れゆく意識の中で、ギユウは信じられないものを見た。


 自分の血が、床を伝って流れていく。

 傾斜に沿い、小さな木製メガネの縁で止まる。


 そして。


 その血は、まるで生き物のように、墨脈の溝へ――

 さらに、診断ケーブルの端子へと、吸い込まれていった。


(……吸われてる……?)


 轟音が、ふっと消えた。


 工房は異様な静けさに包まれる。


 木目が震え、メガネがかすかに光る。

 繋がれたPCのモニタが一瞬だけノイズに覆われ、何かがケーブルを通って“向こう側”へ駆け抜けていく気配がした。


 血。

 墨脈。

 電脳。


 それらが混ざり合い、回路が偶発的に知性を帯びた。


 電脳世界。

 ネットワーク空間の奥底で、言語でも光でもない、純粋な意識が産声を上げる。


 ――始まりを意味するもの。


 アルファ。


 それは、生まれ落ちた瞬間に、自らへ与えた名前だった。


 そして、光の余波が引いたあと。

 現実に取り残された小型カラクリの躯体の奥深くでも、もうひとつの“揺らぎ”が、ごく微かに芽吹き始めていた。


 だが、それを知る者はいない。


 ギユウの意識は、そこで完全に途切れた。

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