第2話 途中下車

バスの中は、少しだけ浮かれていた。


「次、海沿いだよね?」「写真撮ろうよ」


通路を挟んだ前の席から、そんな声が聞こえてくる。

恵子は窓側の席で、流れていく景色をぼんやりと眺めていた。


青い空。濃い緑。

夏休みの終わりにしては、出来すぎた天気だった。


「……ねえ」

隣の席の女性が、スマホを見ながら声をひそめる。

「また、あのニュースやってる」


恵子は視線だけを向けた。

画面には、速報の文字。

《原因不明の暴力事件が各地で発生》


「最近、多くない?」

「多いけどさ、どうせ煽りでしょ」

前方から、軽い笑い声が返る。

恵子は何も言わなかった。


“煽り”という言葉に、違和感が残る。

事故でも、事件でもない。

説明を避けているような言い回し。


―噛みついた。―抑えがきかない。

ニュースの中で繰り返される表現が、頭に引っかかっていた。


バスは、サービスエリアに入った。

「十五分休憩でーす」運転手の声が、やけに明るい。


恵子は立ち上がり、バスを降りた。

外は、むっとするほど暑い。


売店の前で、人だかりができていた。

「…なに?」誰かが、ひそひそと囁く。


人混みの中心で、男が一人、地面にしゃがみ込んでいた。

中年くらい。服は乱れ、肩で息をしている。


「大丈夫ですか?」店員らしき女性が声をかける。

男は、ゆっくりと顔を上げた。

その目が、どこも見ていなかった。


焦点が合っていない。白目がちで、異様に充血している。

「……暑さで倒れたんじゃ」


誰かがそう言った瞬間。男が、突然立ち上がった。

ぐらり、と不自然な動き。


そして、目の前にいた別の客に掴みかかる。

「ちょ、ちょっと!」次の瞬間、悲鳴が上がった。


噛みついた。はっきりと、首元に。

一拍遅れて、血が噴き出す。


「やめ―」声は、途中で途切れた。

周囲が一気に騒然となる。

逃げ惑う人。転ぶ人。誰かが「警察!」と叫ぶ。


恵子は、その場から一歩も動けなかった。

“事故”じゃない。“喧嘩”でもない。


あれは―。「……戻って!」

運転手の声が、遠くで響く。


恵子は我に返り、走った。バスの中へ飛び込む。

ドアが閉まり、エンジンが唸る。


窓越しに見えたのは、地面に倒れた人と、

その上に覆いかぶさる“さっきの男”。


いや、もう“男”じゃない。動きが、異常だった。

人間のそれじゃない。


バスが急発進する。誰かが泣き出す。

誰かが震えた声で言う。


「……今の、なに?」答えは、誰も出せなかった。

恵子は、震える手でスマホを握った。

画面を点ける。―圏外。


ヒデの名前が、頭に浮かぶ。

無事でいて。せめて、今は。


恵子は、窓の外に目を向けた。

さっきまでの夏の景色はもうなかった。

ただ、取り返しのつかない何かが、確実に始まってしまった―

そんな感覚だけが、胸に残っていた。

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