バイオフィッシュ研究所
木緒竜胆
前編:バイオフィッシュ研究所見学ツアー
「我らバイオフィッシュ研究所が開発したバイオフィッシュは、食糧難と食料自給率の低下が叫ばれる現代日本に於いて、救いとなり得るでしょう」
白衣を着た白髪混じりの研究員を先頭に、ゾロゾロと老若男女が練り歩く。
「右手に泳ぎますのは、サーモン……いやいや、鮭というやつですかな。バイオフィッシュとは特定の種を指す分類群ではなく、既存の魚類の遺伝子とタンパク質から人工的に作り出した全く新しい魚類のことを指すわけであります。そうして生み出されたバイオフィッシュは、喩え見てくれが海水魚であろうとも、淡水での飼育が可能です」
鉄製の通路の左右には、半透明の水槽が設置されている。
研究所内ではBGMが流れていないのもあって、ざばざばとホースから水槽へと流れる流水音は、嫌に耳に残る。
水槽の高さは様々で、天井近くまで達するものから、殆ど足首程度の高さまである。
土踏まずすらもなぞる振動は、この通路が如何に危ういかを雄弁に語っているわけだが、このツアーを率いる研究員はそんなことなど露知らず、自慢みたいな説明を滔々と語る。
「こうして少ないリソースから大量に生成することが可能なバイオフィッシュ。私たちはこのバイオフィッシュを、日本国内に! 果ては世界へと広げたく考えております! しかしこのバイオフィッシュ、一つ危険がございまして」
その一言に、ツアー参加者たちからドヨドヨと困惑の音が上がるのも理解はできる。
それも当然のことだろう。
バイオフィッシュ研究所。数年前に突如として名を挙げたこの組織は、今や毎日のように凡ゆるメディアで紹介されている、非常にナウい企業だ。
しかしその実態は謎に包まれており、未だ国会にて言及されたことがないのもあって、不気味極まる存在だ。
ちろりと隣に目をやると、恋人の竜田恋華と目が合った。
本日のツアーは恋華が申し込み、そして何千倍もの抽選を突破して二枠を獲得したということもあり、彼女の瞳はキラピカ輝いている。
「面白いね! 楽しいね!」
流水音に掻き消されるほど小さな声は、読唇術モドキによって幾らか補完される。
「実はこのバイオフィッシュたち。直接触れることができないのです。何故って? アハアハアハ。危ないからです。バイオフィッシュはその特性上、食糧難を救う英雄となり得る歴史的な発明ではありますが、同時に予想もしていなかった致命的な危険性を孕んでいました。それは」
研究員は不意に振り返ると、にいと卑しく口角を上げた。
不意に感じる寒気。つうと背中を撫でる一滴の汗は、ガンガンに冷房が効いたこの空間に於いても特段冷たく感じる。
しかし僕のそれは異端なのか、周りを見渡そうとも、十人程度いる参加者は皆、僕の感じた恐怖には気付いていないようだった。
ぽちゃんとどこか遠くの水槽に、水滴が落ちる音がした。
ザバババ。右手の水槽に、流水が雪崩れ込む。
ホースから放水される様は見ていて痛快……ツウカイ?
何故、水槽上部が開いている? ホースなんか水槽内部に備え付けられるだろう? 何故わざわざ上部を開けておく? 危なくないか?
「どしたの、オサム」
恋華が耳打ちをする。
そんな彼女を嘲笑うように——研究員は、喜劇的に。
「感染、するんですよ」
どっかりと、倒れ込んだ。
不意に、電気が消える。停電か? そう思うと同時に平衡感覚が歪むのを感じる。
カタカタとガラスが揺れる音がする。地震だ。
僕は恋華に覆い被さるように抱きつくと、おもむろにしゃがみ込み、体勢の安定を図る。
揺れは次第に強くなっていき、バシャ、バシャと水槽から水がこぼれ始める。
カラカラ鳴る水槽。キャアキャア叫ぶ女性の叫び声と、ワアワア喚く男性の嘆き。
滑稽滑稽、そう思って精神の安定を図るが、ついに、どこか遠くで——リャガアアアアアアアン!
「割れた!?」
鈍い打撃音みたいな音が息つく間もなく迫ってくる。間もなく、まもなく、水が、サカナが、僕たちに。
「アハアハ。ウニしゃけイクラ」
どばぁぁん。一瞬にして、僕らは呼吸を奪われた。
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