Chapter 2 親愛なる貴女へ。

 海は静かに揺れていた。夕陽が水面を朱に染め、泡ひとつひとつが金色の粒となって弾けている。シアは小さな手で瓶を抱え、岩陰に腰を下ろした。


「ウィン……また手紙、届いたよ」


 ウィンは肩をすくめ、触腕で紙を開く。

 

「……ああ、またか。読む前に心の準備はいいのかい?」

 

「うん。読むのも楽しみなんだもん」


 シアの瞳に、夕日の色が映る。泡のように揺れて、どこか不安げでもあった。


「――“親愛なる修道女様へ。あなたの祈りは、私の心を慰めてくれます。”」

 

 ウィンが紙を持ち上げ、読み上げる。


「え?」

 

 シアは一瞬息を呑む。

 

「しゅう……どう? ……しゅうどうじょ?って、なに?」

 

「修道女かい?」

 

 ウィンがゆらりと触腕を揺らす。少し笑みを含んで、静かに答える。

 

「君に説明してあげよう。修道女っていうのは、“人に恋をする”代わりに、“神様を愛する”人たちのことだ」


「カミサマ……?」

 

「君は知らないだろうね」

 

「うん。海の底じゃカミサマ?の話なんて聞かないもん」

 

「そうだね。神様ってのは、この手紙の相手みたいに、絶対に会えない存在だ。遠くて、触れられなくて、でも心だけで感じるものさ」

 

「ふーん……じゃあ、わたし、修道女じゃないね?カミサマさんを知らないもん。」

 

「そうさ。君は海の底に住む人魚だから、波や潮を愛している」


「……でも、どうしよう。せっかくお手紙もらったのに、シアが人魚だってバレちゃったら、がっかりされちゃうかも」


 ウィンは紙を海に浮かべながら言った。

 

「シア、陸の人間ってのは海の人魚よりずっと複雑なんだ。

 ――ぼくたちは一日中波に揺られるだけだけど、彼らは朝焼けをみ、昼顔に語りかけ、夕凪に足跡をつけて、夜鷹よだかを想う。

 そんな複雑な彼らが、君のことを知ったときにどう思うかなんて、想像もつかないさ」


 シアはうなずいた。

 海の色は深く、少しずつ紫に染まっていく。

 

「……じゃあ、代わりに書こうかな」

 

「代わりに?」

 

「うん。この手紙の修道女さんのふりをして、返事を書くの」

 

 ウィンは触腕を小さく揺らした。

 

「……シア、また面倒なことを思いついたね」

 

「だって、ちゃんと返事をしたいんだもん」


 シアは深く息を吸い込み、紙を海藻のインクで濡らす。指先が少し震える。


「“お手紙ありがとう。あなたの気持ちは、よく届きました。わたしも、あの嵐の夜のこと、覚えています。”」

 

「君の記憶をそのまま書いちゃうの?」

 

「うん。だって、海で見たことはホントだもん」


 ウィンは小さく笑った。

 

「そうか……君にとっては、これも真実なんだね」

 

「うん。でも……海のこと、書いたらどう思うかな」

 

「それは君次第だ。ヒトには海のこと、わからないけれど、想像はしてくれるかもしれないね」


 シアは迷った。

 もし海のことを書けば、もっと心根まで繋がれるような、そんなお返事が返ってくるかもしれない。でも、正体がバレたら、きっと手紙は途絶える。


「うーん……やっぱり、話を合わせる方がいいよね」

 

「そうだね。最初は“修道女のふり”に徹したほうが、波も穏やかだ」


 ◇◆◇


『陸の上にいるカミサマさんに陸の上で、陸の上の教会で祈っています。』


シア「わたしは陸の上の修道女なので、陸の上にいるカミサマさんに、陸の上で、陸の上の教会で祈っています。」


ウィン「“陸”多すぎ! 君、そんなに陸が恋しいの?」


シア「えへへ、なんかたくさん書くと信じてもらえそうで」


ウィン「逆効果だよ。君が“陸”の文字を書くたびに海水が垂れてるし」


シア「うそっ、紙びしょびしょ! あっ……インク溶けちゃった」


ウィン「ほら、やっぱり海の子の手紙だ」


 ◇◆◇


 シアは筆を握り直す。紙の上で泡のように文字を浮かべる。


『シンアイなるあなたへ。お手紙ありがとう。あの夜、あなたを助けられたのはわたしの喜びです。これからもどうか、お元気で』


「できた……かな?」

 

「“助けた”じゃなくて“会った”にしておきなさい。陸の人間は婉曲えんきょくで面倒なことが好きなんだ」

 

「むむ……メンドーなこと?」

 

「手紙のやり取りとか、心のやり取りとか、ね」


 シアはくすっと笑った。

 

「ヒトって、面倒くさい生き物なんだね」

 

「君ほどじゃないさ」

 

「またそれ言った!」


 その夜、海は静かに波を揺らした。シアは瓶を抱え、そっと栓を閉める。そして、瓶を海流に委ねた。


「ウィン、届くといいな」

 

「届くかもね。どんな海流も、何処どこかへは繋がっているからね」


 シアは尾鰭で水面をぱしゃんと打った。その音が、まるで未来への約束のように海に響いた。ウィンはそっと彼女の肩に触れる。

 

「シア、君が書く海の心は、いつも澄んでいるね」

 

「う〜ん?よく分かんないけど、文字も、波みたいにちゃんと返してあげたいんだ」


 泡が弾け、光の破片のように空へ散る。海の中でのメッセージボトルの小さな冒険は、まだ始まったばかりだった。


 ――その夜、星は水面に落ちるように瞬き、メッセージボトルは静かに遠くへ流れた。

 

 誰も知らない海の中で、シアの心は小さな勇気を抱えてただよっていた。

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