未稿箱(みこうばこ)
ねこめがね
File.00:始まりの嘘
【記録者:久住 瑛一】
【記録日:20XX年 6月15日】
6月の雨が、新宿のアスファルトを叩きつけている。 午前2時。 雑居ビル3階の事務所。 部屋の空気は、湿気を含んで重たく
俺、
背骨が軋む音がする。重力に負けた猫背。伸び放題の髪が、湿気でうねって額に張り付いている。 無意識に左手でそれを払いのけ、そのまま顔を覆うようにして大きく溜息を吐いた。指の隙間から、目の下にこびりついた濃い
大手新聞社の社会部で「エース」と呼ばれ、正義という名の毒に酔っていたのは、もう5年も前の話だ。ある事件を境に、俺の人生は文字通り坂道を転げ落ちた。今の肩書きは、ネットの掃き溜めで怪談を捏造する、しがないオカルトライター。今はただ、出口のない日々を淡々と消化しているに過ぎない。
デスクの上には、飲みかけのままぬるくなった缶コーヒーと、山盛りの吸い殻。そして、熱を帯びて微かな駆動音を響かせる三枚のマルチモニター。 メインモニターの黒い画面には、死に損ないのような俺の顔が亡霊のように映り込んでいる。
俺は画面の中の自分から逃げるように、サブモニターへと視線を移した。キーボードに手を置いた…が、指先は石のように動かない。
「……書けねえ」
掠れた声と共に、俺は額に貼っていた「冷却シート」を指先で摘み、ベリリと剥がした。 体温でぬるくなったジェルが、不快な音を立てる。 俺はそれを丸めてゴミ箱へ投げ捨て、新しいシートを取り出した 。 慣れた手つきで額にピシャリと貼り付ける。ひんやりとした感触が、熱を持った頭の奥に染み渡っていく。
「……久住さん。執筆プロセスが停止しています」
静寂を破る、涼やかな電子音。
相棒の『アイ』だ。
彼女の出現と同時に、モニターの照度が一段階上がり、薄暗い部屋を青白く照らし出した。 純白のボディスーツ。 重力のないデジタル空間。 彼女は床に立つのではなく、水中を漂うように、つま先を下に向けたまま中空に浮遊していた 。
透き通るような白髪が、彼女の動きよりワンテンポ遅れて、ふわりと広がる。 左前髪を留めた三角形のヘアピンが、呼吸のリズムに合わせて淡く明滅した。
彼女は空中でくるりと半回転し、上下逆さまの姿勢で画面のこちら側――つまり俺の顔を覗き込んできた。
「……思考中だ。クラウドに上げた取材メモを整理してる」
俺は視線を逸らし、ぬるいコーヒーをあおった。
「嘘ですね」
アイは無重力の動きで元の姿勢に戻ると、空中に浮かぶ不可視のウィンドウをスワイプした。
「解析結果によれば、ネットワークトラフィックは過去30分間、最小待機状態を維持しています。専用クラウドへのアクセスログも途絶えたまま。……今の久住さんは、ただモニターの光で網膜を無意味に刺激しているだけです」
「……うるさいな。書けるネタがないんだよ」
「では、業務効率化のため、外部ストレージのクリーンアップを行います」
アイがスッと右手を掲げると、サブモニターに複雑なディレクトリ構造が投影された。彼女はその深層階層から、パスワード保護されたひとつの巨大なディレクトリをつまみ上げた。
画面越しでも伝わるほどのデータの重圧。彼女はその階層を「重そうに」両手で抱えこんでいる。
「おい、何をする」
「このクラウド領域にあるデータ、占有している容量はテラバイト級です。これらは久住さんにとって、既に不要な『ゴミ』と判断します。削除しておきますね」
「待てッ!!」
ガタッ! 俺は反射的に身を乗り出した。
勢いで膝が机の裏を強打し、コーヒーの缶が倒れて転がる。黒い液体がデスクに広がるのも構わず、俺はマウスをひったくるように掴んだ。
指先に力が入り、クリック音が室内に鋭く響く。
画面の中、アイが抱えていたフォルダをドラッグ操作によってギリギリで救出する。
「……それは、消すな」
俺の呼吸が荒い。額の新しい冷却シートの下から、嫌な脂汗が滲み出るのが分かった。
「なぜですか? クラウドの維持コストの無駄です」
アイは浮遊したまま、ガラスの向こう側から俺の焦燥を見透かすように、緑色の瞳を細めた。
「人間は、なぜ『忘れたい記憶』ほど、ネットワークの隅に消去せずに隠し持とうとするのですか?」
「……忘れたくても忘れる事ができないから……かもな」
溢れたコーヒーをティッシュで雑に拭き取りながら、そのフォルダを、クラウド上の非公開階層へと移動させた。
そこに入っているのは、ただのデータじゃない。
俺が「真実」を隠蔽した記録だ。
オンライン上の静かな墓場。
そこには『ある名前』をつけたフォルダがある。
その名はーーー
『
(File.00 了)
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