第7話 犬


 心が疲れた時、知らないどこかへ逃げ出してしまいたい時、独りぼっちになってしまいたい時。


 僕にはいつも逃げ込むイメージがある。

 それは、地元に実際あった海の景色。

 

 ……いじめられっ子だった僕が、大泣きしなが逃げ回っているうちに見つけた海辺だ。


 行くのにはコツがある。コツというか、見つけづらいのだ。


 森を抜けて小川を横切り、道のない道を行くことになるので、

 僕だけが知っている目印を覚えておく必要がある。


 車の音も、人の声も届かないその場所のことを、いつしか僕は『僕だけの場所』と名付けるようになった。

 

 心が疲れた時、泣いて叫び出したい時、独りになってしまいたい時、子供の頃の僕は、よくこの海に一人で来た。

 そして、波の音に、嫌な思い出を洗い流してもらうのだ。


 大人になるにつれて行く回数は減っていったものの、今でもはっきり覚えている。

 海への行き方も、あの波風も。

 

 故郷を遠く離れた今でも、想像の中でこの海に来る。


 砂浜に寝そべって目を閉じ、嫌なことを忘れるまで波風に吹かれるのだ……。


「ちょっとーセンパイ!!」


 ……僕だけの聖域に、悪魔の呼び声が聞こえてきて僕は、この上なく不愉快になった。


 * * * * *

 

「センパイ! 聞いてるんですか!? センパイ!!」


 ダンスレッスンの、帰りの電車の中で大声で呼ばれている。

 こいつには、モラルという物がないのだろうか。

 

「さっきから、何を怒ってるんですか!? センパーイ」


 神郡が、僕の片手を掴んで左右にぶらんぶらんしている。


 

 その通り僕は怒っている。

 こいつが、僕のプライベートな場所に勝手に入り込んできては、土足で踏み荒らすような行為をするからだ。

 そんなことをされれば誰だって怒るだろう。


 気に入らないのはそのコミュ力で、僕の友人である堂島とも、ダンススクールの仲間ともすぐに打ち解ける。

 そして、こいつに打ち解けられるというのは、僕の消したい過去をバラされるということを意味するのだ。


 ネットでネカマをしていた……


 それはいっときの出来心のつもりだった。

当時のクラスメイトがやっていたネットゲームで、そいつに嫌がらせをされていた僕は、仕返しのつもりでゲーム上で女性になりすまし、からかってやったのだ。


 僕のことをクラスメイトの男子だとはわからないそいつと、女キャラになりきった僕はゲーム上で親しくなり、そいつは僕に恋をした。告白された時は、笑いが止まらなかった。

 

 そいつには酷いことをしたが、されて当然のことをしたのだ。しかし……

 問題はなぜ、神郡がその事を知っているのだろう?

 

 おかげで、スタジオの仲間に、ネカマをやっていた時の過去を知られてしまった。

 

「そんなに拗ねないでくださいよー」


「誰のせいだと思ってるんだ……」


 電車の中なので、精一杯感情を抑えている。


「えーだって、本当のことじゃないですかー。アタシ、センパイのことならなんでも知ってるんですよー。

 なんでも聞いてください! アタシ、宇佐美学の権威なので!! ドクター宇佐美、もしくはプロフェッサー宇佐美って呼んでください!」


「……それだとお前が宇佐美になるだろうが」


「よくぞ気がついてくれました! もはやアタシはセンパイ以上に宇佐美と言っても過言ではない!」 


 あーそうですか。


 ……こいつがスタジオに入ってきてから、気分が悪い。

 大きな蛇が、脳みその中でとぐろを巻いている気分だ。


 そしてこの女は何がしたいのか電車の中でさえ、僕の感情を逆撫でたいみたいで、口数が全く減らない。

 本当に何がしたいんだこいつは……


 だめだ。このままこいつといたのでは頭が破裂する。

 

 電車がどこかの駅に停車した時だった。

 元々降りる駅ではなかったが、閉まる一瞬を見計らって僕は電車を飛び出した。


「あ! センパイ!」


 * * * * *



 走ってそのまま改札を出た。いくら『グレート神郡』でも、追ってはこれまい。


 ……独りになりたかった。ともかく独りに。


 夜道を歩きながら考えた。

 思い出すのは、高校時代の嫌な思い出。そう。僕の高校時代は、概ね神郡が言った通りだった。

 それが嫌で、そんな自分を変えたくて、僕は都会に出てきたんだ。


 そして……人生を変える努力をした。


 それが悪いことだろうか? それを大学デビューというなら笑うがいい。

 なりたい自分になった。それだけのことじゃないか。何も恥じるようなことはしていない。

 

 神郡から逃げるために下車した駅は、家から少しだけ遠かった。

 それでも夜風は、妙に僕に心地がよかった。


 ……のだが……



「なぁぁんで逃げるんですかぁぁ」


 ……聞いてはいけないものが聞こえた気がする。

 幻聴だ。疲れているに違いない。

 今度先生に、少し強い薬を処方してもらお……



「圭ちゃんセンパァァァイ!!」



 嫌な予感に振り向くと、神郡も同じ駅で降りていた!

 どんな身体能力をしているんだ!? 

 そしてこちらに向かって走ってくる!!


「うわああああ!!」


 僕は逃げ出した。



「ああ!? また追いかけっこですかぁ!? 往生際が悪いですよセンパイ! 私のあだ名知ってます!?『赤い彗星神郡ちゃん』ですよ!? アタシの足から!! センパイが!! 逃げることなど! もはや! 不可能! ハハハハハ!!」



 もうそこそこ陽も暮れて、いい時間だ。

 それなのにこいつは大声を出しながら走ってくる。はっきり言って不審人物だ。


 近隣の犬が、吠える。


「さあ逃げろ! 逃げろ! まな板のセンパイ逃げろ!

 捕まえたらどうしようかなー! くすぐり地獄がいいですか!? カーフキックがいいですか!?

 あ! センパイが高校の時にされてたみたいな、オモプラッタがいいですか!?

 さあ逃げないと、神郡ちゃんにナニされるか分かりませんよー!! 追いかけっこ楽しィィ!!」


 本当にこいつは足が早い! 

 そして、執着がすごい! 第一、こんな時間に大声出しながら走るような人間だ!

 マトモなやつであるわけがないのだ!!


 僕は、なんとか神郡から死角になる瞬間を見つけ出し、公園の植え込みに飛び込んだ。

 

 痛い……多分……あちこち切った。

 手とか足とか怪我してる……。


 神郡が騒いだものだから、そこら中で犬が吠えている。


 なんでこんな目に遭わないといけないんだ。


 ……どうやら神郡は撒いたらしい。

 本当に、本当にこのままでは身が持たない。

 

 どうしたものか……心療内科の先生に診察表を書いてもらって大学を休業させてもらうべきか……

 僕が真剣に考えていると……


「セ・ン・パ・イ」


 僕の後ろに目を輝かせた神郡が立っていた。


「うわあ!!」


 僕が逃げようとすると、神郡はそのまま僕に覆いかぶさってきた。


「はい逮捕でーす。二回目は罪が重くなりますよー? 覚悟してくださいね」


「離せ!」


「離しません」


「もうやめてくれ!! ほっといてくれ!!」


 この時僕は、もう泣いていたと思う。

 まるでいじめっ子に、許しを乞うようだ。


「嫌です。聞き入れられません」


「お前は何がしたいんだ!! 僕をどうしたいんだ!!」


 心からの疑問だった。

 すると、静かに神郡は答えてくれた。


「はい。じゃあ、私からの願いを言いますね。

 センパイ。……好きです」


 ……確かに僕は隙まみれだ。そのことは僕が一番反省している。

 そんな隙だらけの僕に、神郡はまた、大きい目の中に僕を閉じ込めて、一言一言はっきりと、こう言った。


「好きです。センパイ。アタシと、ケッコンを前提にお付き合いしてください」



 遠くで犬が、ワオーンと鳴いた。

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