婚約破棄されたので、処理落ちを利用して壁抜けします。~RTA走者の知識で魔王を瞬殺したら、エンディング後の世界が未実装だったので、「優雅な隠居生活」を任意コード実行で強制実装することにしました~

速水静香

第一部:Any% ~魔王討伐RTA~

第一話:断罪と落下の最中の覚醒

 王城の謁見の間は、不快なほどに煌びやかだった。

 頭上のシャンデリアは無数の蝋燭を灯し、磨き上げられた大理石の床は、並び立つ貴族たちの嘲笑を映し出している。

 空気は澱み、香水の甘ったるい香りと、人々の悪意が混ざり合って、鼻の奥をツンと刺激した。


「ヴィクトリア・アシュフォード! 貴様との婚約を、この場をもって破棄する!」


 ホールの中央で、よく通る声が響き渡った。

 声の主は、この国の王太子リチャード。

 その整った顔を怒りで満ちさせて、私を指差している。その隣には、私の異母妹であるアリスが、小動物のように震えながら彼に寄り添っていた。


 私は扇子を持つ手に力を込め、冷ややかに彼を見据えた。

 身に覚えのない罪状。アリスをいじめた、階段から突き落とした、教科書を破いた。どれもこれも、三文芝居のような冤罪ばかりだ。

 けれど、周囲の目は冷たい。

 彼らは真実など求めていないのだ。傲慢な公爵令嬢が断罪され、地へ堕ちるという娯楽を求めているに過ぎない。


「……殿下。そのような戯言を真に受けるなど、正気でいらっしゃいますの?」


 私の口から出たのは、可愛げのない反論だった。

 無実を訴えればいいものを、プライドがそれを許さない。これこそが私が私である所以か。しかし、ここで負けたら終わりだ。

 自分でも呆れるほどの強気な態度に、リチャード王太子の顔が朱に染まる。


「黙れ! その傲慢な態度こそが証拠だ! 衛兵、この女を捕らえよ!」


 彼の号令と共に、重装備の衛兵たちが床を鳴らして迫ってくる。

 抵抗しても無駄だ。

 父である公爵も、今日は領地の視察で不在。私を守る盾はない。

 ああ、これで終わりか。

 公爵令嬢としての地位も、名誉も、将来も。

 修道院送りか、あるいは国外追放か。どちらにせよ、私の人生はここで詰みとなる。


「地下迷宮『血の迷宮』へ突き落とせ! 魔物の餌食となるがいい!」


 リチャードの残酷な宣告に、周囲から悲鳴にも似た歓声が上がる。

 血の迷宮。この城の地下深くに広がる、未踏のダンジョン。

 生きて帰った者はいないとされる処刑場だ。

 衛兵たちに両腕を掴まれ、私は床に開いた黒い穴――処刑用の落とし穴へと引きずられていく。


「離しなさい! 自分で歩きますわ!」


 最後の矜持で腕を振り払い、私は穴の縁に立った。

 底知れぬ闇が、口を開けて待っている。

 怖い。

 足が震える。

 けれど、彼らに怯えた顔を見せるくらいなら、死んだ方がマシだ。

 私はリチャードとアリスを一瞥し、そして自ら暗闇へと足を踏み出した。


 フワリと、身体が浮く。

 次の瞬間、強烈な重力が私を下方へと引きずり込んだ。



 風がごうごうと耳元で唸る。

 ドレスが暴れ、視界が明滅する。

 落ちている。

 ただひたすらに、深い闇の底へ。


 死ぬ。

 このまま地面に叩きつけられれば、私は肉塊となって終わる。

 走馬灯のように、これまでの人生が脳裏を駆け巡った。

 厳格な父、意地悪な継母、そして私を疎む周囲の目。

 私はただ、理想的な公爵令嬢であろうとしただけなのに。

 努力して、勉強して、魔術も礼儀作法も誰より修めたのに。

 誰も私を見てくれなかった。


 悔しい。

 こんな理不尽な結末で、私の人生が終わるなんて。


 ――いや、待って。

 「終わる」?

 この感覚、どこかで知っている。

 この浮遊感。

 視界の端を流れる石壁のテクスチャ。

 加速度の計算式。

 既視感なんてレベルじゃない。

 私は、これを知っている。


 脳の奥底で、何かが弾けた。

 分厚い殻が割れ、中から膨大な情報の奔流が溢れ出す。


 そうだ。

 ここは、『ファンタジー・クロニクル』の世界だ。

 私が前世で、寝食を忘れて没頭したアクションRPG。

 

 名作ゲーム?


 ――いや、全然違う。


 発売当初から、すっかり世間から忘れ去られていた、それ。しかしそのあまりのバグの多さと挙動の不審さから、一部のクソゲー愛好家の界隈で突発的に有名となり、それがRTAコミュニティでも話題となったのだ。

 この世界は『奇跡のクソゲー』としてカルト的な愛され方をしていた、伝説のクソゲーだ。


 さらに記憶が鮮明に蘇る。

 日本の安アパートの一室。

 モニターの明かり。

 手元のコントローラー。

 スーパーで買った、半額シールの貼られた弁当の味。

 そして、画面の端に表示されたタイム計測ツールと、動画サイトのコメント欄を埋め尽くす「物理仕事しろ」「また壁抜けたぞ」「腹痛いwww」という、嘲笑と愛着の入り混じった賛辞の嵐。


 私はただのプレイヤーではない。

 RTA(リアルタイムアタック)走者だ。

 いかに早く、いかに効率的に、そしていかに『仕様の穴』を突きまくってこのクソゲーをクリアさせるか。

 それだけに人生の全てを捧げた、効率至上主義の狂人だったのだ。


「……あ」


 落下する風の中で、私の口から間の抜けた声が漏れた。

 状況を整理しよう。

 私は今、オープニングイベントの直後、強制落下イベントの真っ最中だ。

 本来なら、ここから地下迷宮の探索が始まり、長い長い冒険を経て地上へ生還し、冤罪を晴らすために奔走するストーリーが展開される。

 正規ルートのクリア時間は、平均五十時間。

 私のRTA自己ベストは、四十八分。


 今、私は死にかけている。

 地面への衝突まで、あと数秒。

 普通なら絶望する場面だ。

 だが、私の思考は急速に冷静さを取り戻していた。


 このまま死ねば、ゲームオーバー。

 生き延びたとしても、地上に戻れば「死んだはずの悪役令嬢」として追われる身だ。

 生活基盤はない。

 お金もない。

 名誉もない。

 待っているのは、野垂れ死にか、処刑台への再入場か。

 そんな人生、御免被る。


 私は平穏に暮らしたい。

 美味しい紅茶を飲み、ふかふかのベッドで眠り、誰にも文句を言われない優雅な生活を送りたい。

 そのためにはどうすればいい?

 冤罪を晴らす? 面倒くさい。証拠集めに何時間かかると思っているの。

 隣国へ亡命する? 国境の検問イベントが長い。

 じゃあ、どうする。


 ここで、私の中で高度な判断が下された。


 世界の危機、すなわち『魔王』を倒せばいいのではないか。


 魔王を倒せば、世界は平和になる。

 救国の英雄になれば、冤罪なんて些細な問題は吹き飛ぶ。

 公爵家も、王家も、私に頭を下げるしかない。

 莫大な報奨金で、一生遊んで暮らせる。


 それに私はゲームの中とは言え、魔王を最短で倒していた。

 何度も、何度も何度でも、そのタイムに納得がいくまで!


 ――完璧だ。


 これこそが、現状を打開し、生活の安定を手に入れるための唯一かつ最短の手段だ。


「そうと決まれば、善は急げ……!」


 地面が迫る。

 あと三百メートル。

 通常プレイなら、ここでアイテムを使って着地の衝撃を和らげるところだが、あいにく今はそんなもの持っていない。

 だが、問題ない。

 私の身体が、指先が、脊髄が、解決策を覚えている。


 私は懐からハンカチを取り出した。

 そして、しまう。

 取り出す。

 しまう。

 高速で繰り返す。


 傍から見ればパニックで錯乱した令嬢だが、これは生存のための必須テクニックだ。

 アイテムメニューの開閉処理を連続で行うことで、キャラクターの座標更新処理に割り込みをかけ、落下加速度の変数をリセットする。

 いわゆる『メニュー開閉バグ』の応用だ。

 前世ではボタン連打でやっていたことを、今は自分の手でやっている。不思議と違和感はない。むしろ、指先の感覚だけでやっていた頃より、身体全体を使う今のほうがタイミングを取りやすい。


 地面まで、あと十メートル。

 落下速度は、徒歩レベルまで減速している。


 タンッ。


 軽い足音を立てて、私は地下迷宮の石畳に着地した。

 ダメージゼロ。

 ドレスの裾すら乱れていない。


「ふぅ……」


 ハンカチで額の汗を拭い、私は周囲を見渡した。

 薄暗い回廊。

 湿った空気。

 壁に張り付く発光苔。

 懐かしい『血の迷宮』の第一層だ。

 ここから地上へ戻るには、複雑な迷路を抜け、強力なボスを倒し、数々のギミックを解く必要がある。


 ……正直、面倒くさい。


 RTA走者としての性が、私の思考を侵食し始めていた。

 タイムアタックをしているわけではない。

 急ぐ理由なんて、本当はないのかもしれない。

 でも、知ってしまっているのだ。

 ここを真面目に攻略するのが、いかに非効率的で、徒労に満ちた行為であるかを。

 正規ルートなんて、ただの「お使い」だ。

 私はもっと賢く、楽に、そして優雅に目的を達成したい。


 視線を巡らせる。

 通路の突き当たりに、何の変哲もない窪みがある。

 あそこだ。

 あそこの壁の判定は、設定ミスで極端に薄い。


 私はドレスを摘み、優雅な足取りでその窪みへと向かった。

 途中、スライムが飛び出してきそうになったが、出現判定ラインの手前で立ち止まり、彼らがポップするのを待たずに脇をすり抜けた。

 無駄な戦闘はしない。

 経験値稼ぎ? 時間の無駄だ。

 レベル1でラスボスを倒すチャートはとっくの昔に完成しているのだから。


 窪みの前に立つ。

 冷たい石壁。

 私はそこに向かって、静かに身体を押し付けた。

 四十五度の角度。

 右足を半歩前へ。

 呼吸を整える。


 側から見れば、壁に恋い焦がれて抱きついている変人だ。

 でも、私には見える。

 この壁の向こう側に広がる、広大な『無』の世界が。

 正規のマップデータが存在しない、虚空の海が。


 そこを通れば、魔王城までショートカットできる。

 国境も、山脈も、海も、全て無視して一直線だ。

 移動時間を数週間から数分に短縮できる。

 楽ができる。

 それが全てだ。


「ごめんあそばせ、物理法則さん」


 私は小さく呟き、壁に向かって少しだけ体重をかけた。

 ぐにゅり。

 硬いはずの石壁が、まるで水あめか何かのように私の身体を飲み込んだ。

 視界が切り替わる。

 私は迷宮の閉塞感から解放され、無限に広がる灰色の空間へと躍り出た。

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