第3話 交渉そして決裂
錆びついた鉄の扉が不快な音を立てて開いた。
倉庫の中は外気とはまた違った種類の冷たさに満ちていた。湿ったコンクリートと古い機械油、そして男たちの熱気が混じり合った独特の匂い。
理久はロングコートの襟を立て、できるだけ威厳のある足取りで中へ踏み込んだ。
隣を歩くエマはまるでパーティー会場のエスコート役のように優雅だが、その全身からは「いつでも全員制圧できる」という剣呑なオーラが立ち昇っている。
倉庫の中央、投光器に照らされたスペースにその男はいた。
ドミトリ。
ロシア系マフィア「ヴォルク」の極東支部技術部門を統括する男。身長は二メートル近い巨漢で、厚手の毛皮のコートを羽織っている様は、まさに冬眠から叩き起こされたヒグマだ。
周囲にはサブマシンガンをぶら下げた護衛が四人。全員が殺気立っている。
「ようこそ、ドクター・リク。そして……『破壊の女神(ヴァルキリー)』のエマ君か」
ドミトリの野太い声が響く。日本語は流暢だが、腹の底に響くような圧があった。
「待たせたな、ドミトリ」
理久は努めて低い声を出し、ドミトリの正面に立った。
心臓は早鐘を打っているが、顔には出さない。これは学会発表の質疑応答と同じだ。相手がどんな大物教授(マフィア)だろうと、臆したら負けだ。
「早速だがブツを見せてもらおうか。こちらは約束通り、最新の神経伝達アルゴリズムのデータを持ってきた」
理久が胸ポケットからUSBメモリを取り出すと、ドミトリはニヤリと笑い、テーブルの上に置かれた銀色のアタッシュケースに手を置いた。
「焦るな、ドクター。……ふむ、君の顔色は悪いな。この北海道の寒さは、東京のインテリには堪えるか?」
ドミトリが挑発的に笑う。
理久は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、医師としてのスイッチを入れた。
ここだ。ここで相手の優位を崩す。心理戦(ハッタリ)の時間だ。
理久はドミトリの顔を凝視した。
充血した白目。額に滲む脂汗。そして、テーブルの上に置かれた右手が、微かに、リズミカルに震えている。
――……眼振がある。それに、あの上肢の不随意運動……間違いない。
理久は口元に冷ややかな笑みを浮かべた。
「……私の顔色より、君自身の心配をした方がいいんじゃないか? ドミトリ」
「何?」
「君のその目の充血、そして右手の振戦(ふるえ)。典型的な中枢神経系の疾患の兆候だ。おそらく、極度のストレスによる自律神経失調、あるいは初期のパーキンソン症状が出ている。……悪いことは言わない、この取引が終わったらすぐに私の病院に来たまえ。紹介状を書いてやる」
場が凍りついた。
護衛たちが不安そうにボスを見る。理久は心の中でガッツポーズをした。これで相手は動揺し、主導権はこちらが――
その時、隣のエマが真顔で口を開いた。
「先生。ドミトリ氏の呼気からわずかですがアルコールの臭いがします。今の震えは、単なる二日酔いとアルコール切れ、迎え酒待ちです」
エマのバイタルを把握する特殊能力が思う存分発揮された。
「……」
倉庫内に、完全なる沈黙が落ちた。
ドミトリがバツの悪そうな顔で鼻を鳴らす。
「……昨夜、ウォッカの特売があってな。少し飲みすぎた」
理久の顔が、寒さとは別の理由で一気に赤く染まった。
「そ、そうか……。飲み過ぎは肝臓に悪いぞ。……コホン。さあ、取引だ!」
理久は強引に話を戻した。恥ずかしさで死にそうだったが、今はそれどころではない。
ドミトリがアタッシュケースの留め金を外す。
中には鈍い銀色に輝く円筒形のユニットが鎮座していた。
表面には複雑な幾何学模様が刻まれ、いくつもの接続端子が飛び出している。
『量子神経接続ユニット』
莉紗の意識を、新しい脳(有機培養ボディ)に定着させるための最重要パーツ。
「おお……」
理久は思わず身を乗り出した。
その時、理久の耳に装着していたイヤホンから、莉紗の声が聞こえた。
『……ん?』
いつもとは違う、莉紗の低いトーン。
『ねえリク兄。ちょっと待って。スキャンしてるんだけど……なんか変だよ。素材の反射率が設計データと合わない。チタン合金のはずなのに、なんでこんなに……プラスチックっぽい反応が出るの?』
理久は眉をひそめた。
――プラスチック? いや、これはプロトタイプだ。軽量化のために樹脂を使っている可能性もある。
「ドミトリ。これで間違いないな? だが、外装が少し……」
理久が言いかけると、ドミトリが突然、テーブルを拳で叩いた。ドン! という音に、理久の肩がビクリと跳ねる。
「疑うのか、ドクター! これは正真正銘、我々が総力を挙げて入手した至高の逸品だ!」
ドミトリは熱っぽく語り出した。その瞳は、確かに何らかの情熱(あるいは二日酔いの熱)で潤んでいる。
「いいか、よく聞け。君はこのユニットに対し、相応の報酬を用意したつもりだろう。だがな、私に言わせれば安すぎる! この極寒の地において、このユニットがもたらす恩恵……それはまさに『潤い』だ! 乾ききった我々の生活を救う、救世主と言ってもいい!」
「う、潤い……?」
理久は困惑した。
――量子接続によるデータ流動の滑らかさを『潤い』と表現しているのか? さすがマフィア、詩的な表現をする……
「そうだ! だからこそ、君が提示した条件では足りん! このプロトタイプは君が想像する三倍の、いや、君の命を賭けるに値する価値があるんだ!」
ドミトリが吠える。
理久はゴクリと喉を鳴らした。
三倍の価値。それほどまでに高性能なユニットなのか。ならば、多少のリスクを冒してでも手に入れなければならない。莉紗のためなら、三倍だろうが十倍だろうが安いものだ。
しかし、イヤホン越しの莉紗は冷静だった。
『リク兄、気をつけて。このユニットから微弱だけど……ラベンダーのアロマオイルみたいな匂いの成分が検出されてる。……これ、本当に量子演算装置?』
――アロマ? ……冷却液の匂いか?
液漏れにいち早く気づかせるため、冷却液に固有の匂いをつけるのはありそうなことだ。たとえば本来無臭のプロパンガスにはガス漏れを知らせるための臭いがつけられている。
目の前のドミトリは痺れを切らしたように言った。
「さあ、追加の報酬を出してもらおうか。君の病院にある未公開の臨床データ、あるいは……君自身の優秀な脳味噌でもいいぞ」
護衛たちが一斉にチャッキング・レバーを引き、銃口を理久に向ける。
カチャン、という硬質な音が、交渉の終わりを告げた。
「……交渉決裂ですね」
エマが静かに呟く。
彼女はすでに、ジャケットのポケットに手を入れていた。
「先生。プランBです」
「プランBってなんだっけ!?」
打ち合わせになかった言葉に理久は聞き返した。
「『強行突破(フォース・アウト)』です」
その瞬間、エマの手が動いた。
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