足音

これは、私が高校を卒業したあと、新聞奨学生をしていた頃の話です。

今でも、あの日のことだけは妙にはっきり覚えています。


特別な日じゃありませんでした。

本当に、いつもと同じ朝でした。


私は住み込みで働きながら学校に通っていて、毎朝まだ暗いうちに起きて、自転車で新聞を配っていました。

配達先のひとつに、総合病院がありました。


その病院では、地下の駐車場から入り、エレベーターで上の階に上がって、入院病棟の新聞置き場に朝刊を置くのが決まりでした。

ときどき患者さんに呼び止められて、「スポーツ新聞も頼める?」なんて言われることもあって、学生の私にはちょっとした小遣い稼ぎにもなっていました。


その日も、いつも通りでした。


地下の駐車場から病院に入り、誰もいないエレベーターに乗って、目的の階のボタンを押しました。

……でも、ボタンが点きませんでした。


「あれ?」


もう一度押しました。

それでも、何も反応がない。


「壊れてるのかな」


正直、そのときは焦りよりも、ただ不思議だったのを覚えています。

エレベーター自体は動いているし、照明も点いている。ただ、ボタンだけが反応しない。


その瞬間でした。


急に、エレベーターの中が真っ暗になったんです。


「え……?」


一瞬、本当に何も見えなくなりました。

何秒だったかは分かりません。長く感じました。


そして、またパッと電気が点きました。


ホッとする間もなく、エレベーターが勝手に動き出しました。

上に上がる感覚じゃありませんでした。

下に、沈んでいく感じです。


表示を見ると、地下2階。


「……地下2階?」


私はそこに行く予定なんてありませんでした。


止めようとして、適当にボタンを押しましたが、何も反応しません。

そのままエレベーターは地下2階で止まり、ドアが開きました。


誰かが乗ってくる気配はありませんでした。

ただ、鈍い機械音だけが鳴っていました。


ドアの向こうは、コンクリート打ちっぱなしのフロアでした。

病院というより、工事現場みたいな場所です。


変だな、と思って外の案内板を見ました。

そこに書いてあったのは、


「機械室」「霊安室」


……そのとき、背中がぞわっとしました。


「早く戻ろう」


そう思って、閉まるボタンを押しました。

でも、反応しない。


階数ボタンも、緊急呼び出しボタンも、全部だめでした。


「なんで……」


そのときです。


外から、音が聞こえてきました。


ヒタ……

ヒタ……


靴の音じゃありません。

裸足で歩いているみたいな音でした。


最初は遠くで鳴っていました。

でも、だんだん近づいてくる。


「誰かいるんですか?」


そう声を出しましたが、返事はありませんでした。


音はどんどん近づいてきます。

ぺたぺた、というより、もっと重くて、湿った感じでした。

妙に速い足音でした。


私は、エレベーターの中で固まっていました。

ボタンを押しても反応しないのに、無意識に何度も押していました。


そして、ドアの隙間から、白っぽいものが見えました。


足先でした。


その瞬間、「あ、これはダメだ」となぜか思いました。


次の瞬間、エレベーターのドアが、急に閉まり始めました。


助かった、と思ったかどうかも覚えていません。

ただ、ドアが完全に閉まるのを、必死に見ていました。


エレベーターは、そのまま何事もなかったかのように上へ動きました。

さっきまで地下2階にいたことが、嘘だったみたいに。


扉が開き、目的の階に着きました。


正直、すぐ帰りたかったです。

でも、仕事ですから。

私はそのまま配達を続けました。


そこは精神病棟でした。


早朝なので、廊下には誰もいません。

エレベーターを降りた位置からは、ナースステーションも見えませんでした。

白い廊下が、奥までまっすぐ伸びているだけです。


普段と何も変わらないはずでした。

でも、さっきの地下の出来事が頭から離れなくて、胸の奥がずっとぞわぞわしていました。


エレベーターを降りてすぐの台に、新聞の束を置きました。

いつもの動作です。

それから、廊下を進みました。


そのときです。


横から、突然、手が伸びてきて、

私の腕を掴みました。


「――っ!」


声を上げそうになりました。

心臓が一気に跳ね上がりました。


次の瞬間、


「あら、大丈夫ですか?」


女性の声がしました。


見ると、看護師さんが立っていて、私の腕を掴んでいた手を、そっと離しました。

どうやら、病室から患者さんが手を伸ばしていたようでした。


その病室を見ると、生気の抜けたような顔をした、おじいさんが立っていました。


看護師さんが言いました。


「普段、こんなことしない方なんですけどね。どうしたんでしょう」


私は、「そうですね……」としか言えず、曖昧に頷きました。


地下二階のことといい、今日は不思議なことばかりだな、と思いました。


それで、その場を離れようとしたとき、

ふと、気づいたんです。


(……あれ?)


この看護師さん、いつ来たんだろう。


さっき、廊下には誰もいなかったはずでした。

近づいてくる音も、人の気配も、何もなかった。


振り返りました。


もう、看護師さんはいませんでした。


さっきの病室に入ったのかな、と思いました。

そう思うことにしました。


私は廊下を進み、角を曲がりました。

すると、ナースステーションが見えてきました。


そこには、看護師さんが2人、並んで立っていました。

書類を見ながら、何か話しています。


いつも通りです。

この時間帯は、いつも2人。


……2人?


じゃあ、さっきの看護師さんは?


急に、全身が寒くなりました。


でも、そのときは、それ以上考えるのをやめました。


考えたら、何か取り返しのつかないことになる気がしたからです。


あの日のあとも、私はその病院への配達を続けていました。


正直、行きたくなかったです。

でも、生活がかかっていましたし、理由を説明できる出来事でもありませんでした。


精神病棟の廊下も、地下の駐車場も、

何も変わりませんでした。

いつも通りの朝で、いつも通りの仕事でした。


ただ、一つだけ。


あのとき廊下で声をかけてきた、

あの看護師さんだけは、

それから一度も見ませんでした。


時間帯が違うのかと思いました。

たまたま別の病棟の人だったのかとも考えました。


でも、ナースステーションにいる看護師さんは、いつも同じ顔ぶれでした。


2人だけ。


あの日、私が見た3人目の看護師さんについて、誰かに聞く勇気はありませんでした。


聞いてしまったら、何かがはっきりしてしまう気がしたからです。


私は今でも、あの地下2階で何が起きていたの

か、あの廊下で誰に声をかけられたのか、分かりません。


ただ一つ言えるのは、あの日以降、エレベーターの中で、ボタンが反応しない瞬間があると、今でも無意識に息を止めてしまう、ということです。

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