12月19日、火鉢の熱と、消えないくしゃみ

❄️ 12月19日、火鉢の熱と、消えないくしゃみ


I. 師走の風と、ももひき事件

12月19日。 カレンダーの数字が、まるで逃げるように後半へと突き進んでいる。 世間は師走の喧騒に包まれ、人々は首をすくめて足早に通り過ぎていく。


「……寒い。寒すぎるわ、これ」


俺、相馬(そうま)は、駅前の交差点で木枯(こがらし)に頬を叩かれながら、自らの選択を呪っていた。 今日の冬の空は、驚くほど透明で高い。だが、その美しさと引き換えに、空気は**初霜(はつしも)**を降らせた今朝の冷気をそのまま引きずっている。


「相馬くん! 待った? ……って、うわ、何その顔」


背後から声をかけてきたのは、同じ大学の腐れ縁、凛(りん)だ。 彼女は、ボアのついたコートに顔を埋め、冬の日を反射してキラキラと輝く瞳で俺を見上げている。


「顔ってなんだよ。防寒の限界に挑んでるだけだ」


「防寒って……。相馬くん、ズボンの裾から何か見えてるわよ。それ、もしかして……股引(ももひき)?」


「っ! ……うるせー! お洒落より生存戦略だ。この冬の蝶みたいに儚い俺の体力を守るには、綿100%の股引が必須なんだよ!」


凛は一瞬絶句した後、お腹を抱えて笑い出した。 「あははは! 21歳男子が股引! もう、最高! 狼みたいな鋭い目つきして、中身はおじいちゃんなんだから」


「笑いすぎだ。ほら、行くぞ。……へっ、くさめっ!」


勢いよく飛び出した**くしゃみ(くさめ)が、冷たい空気に白く霧散する。 「風邪ひかないでよ? ほら、あそこの社会鍋(慈善鍋)**に募金して、徳を積んだら温まるかもよ」


凛は、チリン、チリンと鳴る鈴の音の方を指差した。 「……ああ。あれを見ると、本当に年末って感じがするな」


II. 枯れた景色と、熱いマグロ

俺たちは、少し歩いて公園を横切ることにした。 かつて青々としていた芝生は**名草枯(なぐさか)れ、茶色の絨毯のようになっている。遠くに見える枯田(かれだ)**も、今はただ静かに春を待つばかりだ。


「ねえ、相馬くん。あそこの池、見て」


凛が指差した先には、**枯蓮(かれはす)が折れ曲がり、水面に奇妙な幾何学模様を描いていた。その脇には、葉をすべて落とした枯山吹(かれやまぶき)**が、細い枝を震わせている。


「……寂しい景色だな」


「そうかな? 私は、全部を削ぎ落とした今の景色、好きだよ。……あなたの、変な見栄を張らない股引姿みたいに」


「まだ言うか、それを」


俺たちは公園を抜け、凛の叔父が経営している古い古民家カフェに逃げ込んだ。 中に入った瞬間、炭の爆ぜる音と、独特の香ばしい匂いが俺たちを包み込んだ。


「あぁ……生き返る」


部屋の隅には、現役の**火鉢(ひばち)**が置かれていた。 灰の中に埋まった炭が、オレンジ色の熱をじんわりと放っている。


「いらっしゃい。今日はとびきりの**鮪(まぐろ)**が入ってるよ。ランチは中落ち丼だ」


叔父さんの威勢のいい声。 「えっ、カフェなのに鮪? 叔父さん、趣味全開じゃない」


凛が笑いながら注文する。 運ばれてきた鮪は、冬の日を浴びて、宝石のように赤く、艶やかに光っていた。


「……うまっ! この脂の乗り、最高だわ」


「でしょ? 冬の鮪は格別なんだから。ほら、相馬くんも口開けて。あーん」


「は!? ……ちょ、凛、お前な」


不意打ちの「あーん」に、俺の心臓が狼の遠吠えのように激しく脈打つ。 「何よ、股引履いてるくせに、今さら照れてるの?」


「関係ねーだろ、それは!」


俺は強引に口に放り込まれた鮪を噛み締めた。 ひんやりとした身の感触と、口の中でとろける濃厚な脂の甘み。そして、それを追うようにやってくる、凛の悪戯っぽい笑顔の熱。


III. 火鉢の前での、消えない熱

食後、俺たちは火鉢の側に椅子を寄せた。 鉄瓶から立ち上る柔らかな湯気。 外では木枯が窓をガタガタと揺らしているが、この小さな空間だけは、時間の流れが止まっているようだった。


「……ねえ、相馬くん」


凛が、火鉢の縁を指先でなぞりながら、ぽつりと呟いた。 「……なんだよ」


「来年も、こうして一緒にくしゃみしてたいね」


その言葉に、俺は火箸を握る手に力を込めた。 「……そうだな。来年は、もう少しお洒落な股引を買うよ」


「あはは、結局履くんだ! ……でも、そういう相馬くんが、一番温かいよ」


凛の手が、俺の手に重なった。 初霜のような冷たさを想像していた彼女の手は、火鉢の熱を吸って、驚くほど温かかった。


「……凛、顔が赤いぞ。火に当たりすぎじゃないか?」


「……バカ。火のせいじゃないわよ」


凛はそう言うと、俺の肩にコトンと頭を預けた。 外の冬の空は、いつの間にか夕焼けの茜色に染まり始めている。


12月19日。 師走の寒さはこれからが本番だが、俺の胸の中には、どんな木枯にも消されない、小さな、けれど確かな炭火の熱が灯っていた。


「……へっ、くさめっ!」


「あはは、また! ほら、もっと火に当たりなさいよ」


二人の笑い声が、火鉢の温もりとともに、静かな冬の夕暮れに溶けていった。


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