竈猫の匂い、母の火

竈猫の匂い、母の火


「おい、小春、そんなところで寝てたら、お婆ちゃんに叱られるぞ!」


 障子の向こうから、兄の声が飛んできた。


 私は、土間の隅、古びた**竈(かまど)**の横で、丸くなっている茶色い猫を指差した。


「見て、お兄ちゃん。この子、全然動かないんだよ。本当に**竈猫(かまどねこ)**だね」


 兄は、汚れた前掛けをしたまま土間に降りてきた。足元には、冷たい土の感触と、わずかに炭の粉が混ざったざらつきがある。


「あいつは、竈の熱を知り尽くしてるからな。お前だって、冬はいつもここから離れなかったくせに」


 私がまだ幼かった頃、この土間は、冬の寒さから逃れる唯一の聖域だった。薪を燃やし、飯を炊く竈の熱が、冷たい空気を押し返し、焦げ付いた米と煙の匂いと共に、私たちを包み込んでくれた。


「あれ? お婆ちゃんは?」


「さっきから、裏の畑だよ。もう**霜月(しもつき)**も終わりだ。急に寒くなったから、野菜がやられないか心配なんだと」


 兄はそう言って、薪を抱えた。手に持つ古い木材の、乾燥しきった独特の匂いが、鼻を抜ける。


「ねえ、お兄ちゃん。この竈猫はさ、竈が冷えても、この場所を離れないんだね」


 竈猫は、相変わらずぴくりとも動かない。その毛並みには、かすかに竈の煤(すす)が混じり、暖炉の前に長時間座っていた時のような、温かい焦げた匂いがする。


「そりゃそうだ。あいつにとっては、ここが命綱だったんだから。お袋がまだいた頃、お前が熱を出した夜があっただろう?」


 兄の言葉で、鮮烈な記憶が蘇った。


「――母さん、お願い、火を絶やさないで!」


 あれは、雪の降る夜だった。私はひどい高熱でうなされ、布団の中で悪夢を見ていた。


 母は、私の額に冷たい手ぬぐいを当てながら、弱った声で父に叫んでいた。


「大丈夫だよ、小春。この竈の火は、絶対に消えないからね」


 母は、私を土間まで抱き上げ、竈の前に座らせた。パチパチと燃える薪の音。炎の赤とオレンジの色が、私のぼやけた視界を支配した。


「この竈の火は、ご飯を炊くだけじゃないんだよ。お前を温め、悪い病を燃やし尽くす火なんだ」


 母は、私を抱きしめたまま、竈の横に座り込んだ。その時、私の足元に、あの茶色い猫がそっとやってきて、私の足に体を擦り付けたのだ。


「竈猫は、火の守り神なんだって。お前が寂しくならないように、この子も一緒に籠ってくれるんだよ」


 母の腕の温かさ、猫の毛皮の温かさ、そして竈の熱。三重の温もりが、私の体を包み込み、悪寒を遠ざけていった。私は、その温かさの中で、意識を失うように眠りに落ちた。


「……小春?」


 兄の声で、現実に引き戻される。


「ごめん、何でもない。思い出しちゃった」


「ああ、あの夜のことか。俺も覚えてるよ。あの時、お袋が竈の火を絶やさなかったおかげで、お前は助かったんだ」


 母は、その翌年の春、病で亡くなった。それ以来、私たち家族にとって、この竈は単なる調理器具以上の意味を持つようになった。


 兄は、薪をくべ、火をつけた。シュウ、という湿った音と共に、白い煙が上がり、やがて炎が勢いよく立ち昇る。炎の熱が、私の顔を赤く染めた。


「ねえ、お兄ちゃん、今も、お婆ちゃん、わざわざこの竈でご飯炊くでしょう?」


「ああ。電気釜は便利だけどな。お婆ちゃんは言うんだ。『竈で炊いた飯じゃないと、お袋の味にならん』って」


「竈の味……」


 私は、目を閉じた。薪の煙の匂いに、少し焦げた米の甘い香りが混ざり合う。それは、母の記憶と直結した、私たちの家だけの匂いだった。


「お婆ちゃん、最近、冬籠(ふゆごもり)の準備を始めたって言ってたでしょう? 新しいカーディガンを編んだり、**膝掛(ひざかけ)**を干したり」


「ああ、言ってたな」


「でも、本当の冬籠は、この竈の火を絶やさないことなんだよね」


 私がそう言うと、兄は手を止めて、真剣な顔でこちらを見た。


「そうだよ、小春。竈は、この家の心臓だ。昔の人にとって、火を絶やさないことが、文字通り冬籠の全てだったんだから。お袋は、そのことを知っていた」


 その時、竈猫が、ようやく目を覚ました。大きなあくびをして、体を伸ばす。そして、炎を見つめた後、そのまままた、ゴロゴロと喉を鳴らしながら丸くなった。


「この猫は、本当に特別だね。火の番人」


「ああ。俺たちよりも、火の温かさを知っている」


 兄は、立ち上がった。


「さてと。俺は仕事に行くけど、お前は?」


「私はもう少し、ここにいるよ。この竈猫みたいに、静かに冬籠の準備をする」


 兄が土間から上がり、玄関に向かう。


「戸締り、しっかりしろよ。もう、雪(ゆき)が降りそうだからな」


「分かった」


 一人になった土間は、再び静寂に包まれた。しかし、竈の火だけは、力強く燃え続けている。


 私は、竈猫の隣にそっと座った。竈猫は、警戒する様子もなく、私に顔を向けた。その瞳は、炎の光を反射して、金色に輝いている。


「ねえ、竈猫。母さんは、火を絶やさないで、って言ったけど、母さん自身は、春を待たずにいなくなっちゃったね」


 私の言葉は、誰にも届かない独り言。


「**冬座敷(ふゆざしき)**の暖房も、電気毛布も、うちにはあるのに。どうして、この火じゃないと、寂しいんだろうね」


 ふと、竈の反対側の壁を見る。古い柱には、私が子供の頃に引っ掻いたような、小さな傷がたくさん残っている。


 私は、手を伸ばし、竈猫の頭を撫でた。猫の毛皮は、驚くほど温かい。その温かさは、単に火の近くにいるからというだけでなく、そこにいることを選んだ、小さな命の温もりだった。


「ねえ、もし、この火が消えちゃったら、君はどこへ行くの?」


 竈猫は、微かに喉を鳴らしただけで、答えなかった。しかし、その温かい体が、私に確かなメッセージを送ってきていた。


――私は、この火の温もりを、忘れない。


 そのメッセージを受け取った瞬間、私の胸の中の凍っていた何かが、少し溶けたような気がした。


 母が守りたかったのは、単なる竈の炎ではなく、その炎を通して私たち家族に伝わる、**「絶やしてはいけない命の温かさ」**だったのかもしれない。


 私は、立ち上がり、台所の隅に置かれていた新しいカーディガンを羽織った。柔らかい毛糸の感触と、新しい羊毛の匂い。


 そして、私は竈に近づき、そっと薪を一本、くべた。


「これで、もう大丈夫だよ」


 炎が、新しい薪に勢いよく燃え移る。パチパチという音と共に、明るさが土間全体に広がった。


 竈猫が、満足したように、深く息を吐いた。


「よし、私も冬籠だ」


 私は、竈猫の隣に座り込み、膝掛を広げて、その半分を竈猫にかけてやった。


「これで、完璧だね。君は火の番人。私は、君の番人」


 温かい膝掛の下で、竈猫が私を見上げた。その目には、感謝の色があるように見えた。


 窓の外、冷たい冬の空の下では、やがて雪が本格的に降り始めるだろう。しかし、この竈猫の匂いがする場所、この火の温かさがある場所は、永遠に私たちの冬籠の聖域であり続ける。


「お婆ちゃんが帰ってくるまで、ここで温まっていようね。そして、お婆ちゃんが炊く、竈の美味しいご飯を食べよう」


 私は、竈猫にもたれかかり、目を閉じた。薪が燃える音、猫の喉のゴロゴロという音。その二つの音だけが、私を満たしていた。


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