ラ・グラン・フーガ

第1話森の中で目を覚ます



目を覚ますと、森の中だった。


土の匂いと、湿った空気。鳥の声が遠くで鳴いている。身体を起こすと、黒のタンクトップに灰色のスウェットという見慣れない格好をしていた。手元には、タバコとナイフ。理由は分からないのに、それだけは自然に握れている。


ここに来た経緯も、自分が何者なのかも思い出せない。考えようとすると、頭の奥に靄がかかる。ただ、断片的な感覚だけが残っていた。


この二つは、俺にとって特別だということ。手放してはいけないものだということ。


立ち上がろうとして腕を振った拍子に、視界の端に黒い影が映った。俺は足を止め、腕を見下ろす。


皮膚に刻まれた、意味のある線。消えない印。


それを見た瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。理由は分からない。だが、見てはいけないものを見た気がした。


身体に派手な紋様を背負っている連中は、ろくでもない——そんな考えが、説明もなく浮かぶ。


なら、それを刻んでいる俺は何だ。


喉の奥が苦くなる。タバコを吸ってもいないのに。


……ああ、そうか。


思い出せなくても分かる。俺は最初から、まともな人間じゃなかった。


俺は宛もなく歩き出した。立ち止まるのが怖かった。ただ、それだけだ。


しばらくして、喉の渇きと腹の重さに気づく。声を出してみた。


「……あー、あー」


掠れた音が、やけに他人の声みたいに聞こえた。どれくらいここにいるのか分からないが、空腹だけは誤魔化せない。


木の根元に生えていた植物を口に入れる。


「……まずっ」


苦味と刺激が舌に張りつき、反射的に吐き出した。しばらく歩いては、手当たり次第に試したが、どれも食える代物じゃない。空は次第に暗くなっていった。


どうしようもなくなって、タバコを取り出す。箱の中には十本ほどとライター。


岩に腰を下ろし、慣れた手つきで火をつける。煙を肺に入れた瞬間、胸の奥がわずかに緩んだ。


「……落ち着くな」


理由は分からない。ただ、この行為だけが正解みたいに感じられた。


だが、その安らぎは長くは続かなかった。気温が急激に下がり、冷たい風が身体を刺す。


「……さぶ」


身を縮め、ライターの火に手を近づけながら歩く。やがて洞窟を見つけ、残った力を振り絞って中へ入った。


奥行きがあり、天井も高い。少し奥に枯葉の山があった。


ナイフで火を起こし、枯葉に移す。炎が立ち上がり、ようやく寒さが和らいだ。暖を取った途端、意識が遠のく。


朝方、夢を見ていた。


何も考えず、火のそばでタバコを吸っている。それだけの夢なのに、ひどく安心していた。


胸を掴まれるような感覚で、俺は飛び起きた。


無意識に手が動く。いつもそこにあるはずの重さを探す。


……ない。



ない。


「……俺の、ナイフ……?」


声が震えた。


理由は思い出せないのに、分かる。あれがないと、俺は終わる。


その時、視線を感じて顔を上げた。


そこにいたのは、俺の身長を遥かに超える大きな猿。背中には翼、額には一本の角。ヨダレを垂らし、こちらを見ている。


こんな生き物、知っているはずがない。それで理解してしまった。


——ここは、俺の知っている世界じゃない。


ナイフはない。逃げ場もない。


冷たい現実だけが、はっきりとそこにあった。

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