スプリンターとトラクター
詰替ボトル
第1話 美しいアメーバ
七月のN県C市は、湿度が暴力だ。
タータンの照り返しと、陸上部員たちの汗と、湿布の匂いが混ざり合った独特の大気。私はこの空気を吸うだけで、偏差値が二つくらい下がる気がする。
「ミキ、ゼッケン曲がってる」
招集所で待機していると、カナが私の背中をバシッと叩いた。
「痛い。叩かなくても直せるでしょ」
「気合注入。あと、安全ピンの留め方が雑」
「いいよ、どうせ一分後にはどうでもよくなるんだから」
私は背中を丸めて抗議する。
カナはアンカー、私は三走。
リレーのオーダー用紙には私の名前の上にカナの名前があるが、走る順番は逆だ。
カナだけが異物。他は私も含めて、ごく平凡な陸上部員。
これがこの界隈の、ウチのチームに対する評価だ。
カナは膝を抱えて、招集所のベンチに座り込んでいる。
長い手足を持て余しているようだ。
緊張感というものが欠落している。
「県大会行けたらさ、駅前の『ポピー』でメロンソーダ奢ってよ」
「なんで私が。アンカーが奢るべきでしょ」
「じゃあ割り勘でいいから。ポテトもつけよう」
「まだ走ってないのに、帰りの話?」
「イメージトレーニングだよ。糖分も塩分も大事」
カナはけらけらと笑う。
この期に及んでポテトの話ができる神経が分からない。
彼女は学年トップ近い成績を取るくせに、思考回路は時々アメーバみたいに単純だ。
*
レース直前、トラックに散らばる。
私の持ち場は第三コーナーの入り口付近。
観客席から遠く離れた、一番地味で、一番遠心力がかかる場所だ。
ピストルの音。
バックストレートの向こうから、第二走者のユイが走ってくるのが見えた。
全力で走ってるとき、なぜか決まって唇が右の方に流れる、いつものあの顔だ。
いつもの距離で、私は助走を開始する。
右手の掌を広げ、後方へ突き出す。
ここからの数秒間、私は「教師志望の中学生」から「バトンを運ぶ輸送機」になる。
ドン、と手のひらに衝撃。
アルミの冷たさを握りしめ、私はカーブを駆け抜ける。
内側の白線を踏まないように、腕を振る。
肺が熱い。
横のレーンの選手が視界の端に見えるが、無視だ。
私の仕事は「抜くこと」ではない。「届けること」だ。
前方に、見慣れた後ろ姿があった。
カナだ。
私が指定したポイントで、彼女が動き出す。
まるで私の速度を肌で感じ取っているかのような、完璧なタイミング。
「ハイ!」
私が叫ぶと、カナの手が伸びる。私はそこにバトンを叩きつける。
受け渡した瞬間、私の手から重みが消える。
それと同時に、カナが爆発的な加速を見せた。
私の仕事は終わった。
あとは惰性で減速しながら、特等席で観戦するだけだ。
カナがコーナーの出口で一人抜いた。
スタンドがちょっとだけ沸く。
直線に入って、もう一人抜いた。
ポニーテールが揺れるたびに、順位が上がる。
あれは才能だ。
努力とか根性とか、そういう泥臭いものをすべて置き去りにしていく、純粋な速度だ。
見ているだけでうっとりするような、美しいスプリント。
*
結局、カナは三位でゴールに飛び込んだ。
県大会出場決定。
私がゴール地点へいくと、カナは涼しい顔をして、まだ呼吸の整わない私にピースサインを向けてきた。
「ね、言った通りでしょ」
「はあ……はあ、なにが?」
「メロンソーダとポテト」
カナは笑った。
この天才は、県大会の切符よりも帰りの炭酸飲料の方が大事らしい。
私は膝に手をつきながら、このどうしようもない親友と、あと少しだけ一緒に走れることに、安堵のようなものを感じていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます