処刑公爵の館、または甘党の聖地
王都の喧騒を離れ、鬱蒼とした森を抜けた先にその屋敷はあった。
アイゼンブルク公爵邸。
切り立った崖の上に聳える黒い石造りの城はどう見てもラスボスの居城だ。
今にも雷が落ちてきそうな禍々しいオーラを放っている。
(……うん、完全に「入ったら二度と出られない館」ですね)
馬車を降りると玄関前には数十人の使用人が整列していた。
全員が顔面蒼白で震えている。
まるで死神を迎える生贄のようだ。
「……旦那様、おかえりなさいませ」
執事と思しき老人が声を絞り出す。
ジークフリート公爵は無言で頷くだけ。
その冷徹な所作に、使用人たちがビクリと肩を跳ねさせる。
彼は私の背中に手を添えた――ふりをして、触れないギリギリの距離でエスコートした。
(あ、今は触れてないから声が聞こえない)
「私の客だ。丁重にもてなせ。……粗相があれば分かっているな?」
「は、はいっ!命に代えましても!」
公爵の低音ボイスによる脅し。
使用人たちは私を「あわれな生贄その2」を見るような目で見てくる。
違うのよ、皆の衆。
貴方たちの主人は今、内心でとんでもないパニックを起こしているはずだから。
◇
通されたのは重厚な革張りのソファが置かれた応接室だった。
暖炉には火が入っているが、空気は張り詰めている。
公爵は向かいの席に座ると、足を組み鋭い視線で私を見据えた。
「……まずは身体を温めろ」
彼が指を鳴らすと、震えるメイドがお盆を持ってきた。
差し出されたカップには湯気が立つ白い液体。
「毒か……?」と疑いたくなるような重々しい雰囲気で彼は言った。
「飲め」
私は恐る恐るカップに口をつける。
……甘い。
最高級の蜂蜜をたっぷりと溶かしたホットミルクだ。
しかも、適温。
(……優しすぎる)
ホッと息をつくと公爵が口を開いた。
いよいよ本題だ。
「リリアナ嬢。単刀直入に言おう。私と結婚しろ」
「……はい?」
あまりの唐突さにまた間の抜けた返事をしてしまった。
彼は氷のような無表情を崩さず、淡々と条件を提示する。
「君の生家であるアムスベルグ家は、王太子の圧力により商売が立ち行かなくなるだろう。だが、私の妻という立場があれば誰も手出しはできない。衣食住の保証はもちろん、実家への援助も約束しよう」
条件は破格だ。
断る理由がない。
けれど、彼は冷たく付け加えた。
「ただしこれは契約だ。期間は一年。ほとぼりが冷めた頃に離縁し、君には十分な慰謝料を渡して自由にする」
そして、彼は私の目を真っ直ぐに見て残酷な宣告を下す。
「勘違いするなよ。私は君を愛することはないし、君に指一本触れるつもりもない。……私のような血に塗れた男が君に触れるなど許されないことだからな」
完璧な論理。
冷酷な拒絶。
「白い結婚」の宣言。
(……なるほど。口ではそう言いますか)
私はカップを置きゆっくりと立ち上がった。
そしてテーブル越しに身を乗り出し、驚いて固まる公爵の手――革手袋の上からではなくわずかに露出していた手首の皮膚にそっと指を触れた。
「……っ!?」
スイッチ、オン。
『嘘だ嘘だ嘘だーーーッ!!愛してる!死ぬほど愛してる!一年で離婚!?できるわけないだろ、そんなの僕の心が死んでしまう!でも、いきなり「一生一緒にいてくれ」なんて言ったら重いよな!?ストーカーだと思われるよな!?』
『指一本触れない!?嘘だ!本当は抱きしめたいし、膝枕してほしいし、あわよくば毎朝「いってらっしゃいのチュー」とかしてほしい!でも僕の手は処刑人の手だ。こんな汚れた手で、雪のように真っ白なリリアナ様に触れるなんて冒涜だ!ああでも、今触れられてるこの指先の熱だけであと十年は戦える……!』
(……うん、知ってた)
彼の本音は「自分への自信のなさ」と「私への過剰な神聖視」で構成されていた。
このままでは、彼は一生自分の殻に閉じこもったままだろう。
ならば私がやるべきことは一つ。
私は指を離さずニッコリと微笑んだ。
あくまで「ビジネスパートナー」として彼の提案に乗るふりをしてあげるのだ。
「分かりました、公爵様。その契約、お受けします」
「……そ、そうか。賢明な判断だ」
「ですが、一つだけ条件があります」
私は彼の手首をぎゅっと握り返した。
「私たちは夫婦になるのですから、人前では仲睦まじく振る舞う必要がありますわ。ですから……」
私は少しだけ首を傾げ上目遣いで彼を見る。
「手をつなぐことくらいは許してくださいね?……ジークフリート様」
その瞬間。
公爵の氷の仮面が音を立てて崩壊した。
顔が一気に沸騰し耳まで真っ赤に染まる。
口をパクパクとさせ言葉が出ない様子だ。
『名前……っ!名前で呼ばれた……!手をつなぐ!?いいのか!?減るもんじゃないしとか思ってないか!?僕にとっては一大事だぞ!?ああ神様、今日が命日ですか!?ありがとうございます、悔いなし!!』
私は心の中でガッツポーズをした。
ちょろい。
そして、思った以上にこの旦那様が――可愛くて仕方がない。
「それでは、これからよろしくお願いしますね。旦那様」
こうして、私の「耳が忙しい」新婚生活が幕を開けたのだった。
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