【未名現象観測録】——揺らぎの観測者
長谷部慶三
第1話 欠席の理由
榊の講義だけは一度も休んだことがなかったというのに──
自分でも信じられないほどの無断欠席だった。
数日後、立花はレポートを提出するため、榊教授の研究室を訪れた。
教授は小柄で中肉中背、手入れのされているようでされていない伸びた髭が、どこか頑固さと野性味を同居させている。
レポートに目を走らせながら、榊は言った。
「こないだ、珍しく来なかったな」
立花は視線を逸らした。
「ええ……ちょっと、疲れが取れなくて」
「それは良くない。休むときは休まないとな」
榊は軽く頷いたが、次の言葉の温度はまるで違った。
「──でも、本当の理由はそれじゃないだろ」
立花の喉がひくりと鳴る。
学問のことだけではない。この人は、自分の生活の揺らぎまで見透かしているのか。
「どうした? 話せる内容なら聞くが」
その眼差しは真っ直ぐで、射抜くように強い。
とても長く見ていられない。
「……いえ。少し飲みすぎただけです」
「それも違う」
ほとんど反射のように、榊は即答した。
立花は息を呑み、しばらく言葉を失った。
「……飲みすぎた、としか言いようがないことが起きたんです」
その瞬間、榊の眼に宿っていた鋭さがふっと和らぎ、
代わりに、研究者特有の“好奇心の火”が灯る。
「面白そうじゃないか。続きを」
立花は迷った。
こんな話、信じてもらえるとは思えない。
「昨夜……部屋のベッドが、勝手に動いたんです」
言いながらも、自分で可笑しいと思ってしまう。
「うちはワンルームだから、ベッドは縦に置くしかないのに……気づいたら斜めにずれてて。テレビも勝手に点いたり消えたり……。
もう、自分の方がおかしくなったんじゃないかと思って……眠れませんでした」
榊は黙って聞いていたが、不意にスマホを取り出し、何かを打ち始めた。
「ほら、やっぱり信じてないんですね。こんな話……」
スマホを置き、榊は顔を上げる。
「ああ、すまん。別件の連絡が来てな。それで──君の話だけどな。あれだ」
榊は顎に手をやり、髭を掻く。
「すまん、言葉が出てこない。……ああ、そうだ。ポルターガイストだ」
立花は目を瞬かせた。
令和が終わり、
「先生、真面目な話なんですけど」
「もちろん真面目だ。だからこちらも真面目に答えている。それは典型的なポルターガイストだ」
「幽霊……じゃないですか」
「そうだよ」
榊はさらりと言った。
「だが、“幽霊は科学で説明できる存在だ”というのは知らないか」
「か……科学で……?」
「そう。霊的現象は、もはや“科学の外側”じゃない。
具体的にいえば──素粒子、そして量子だ」
榊の声音は落ち着いていた。
それは、非現実を語る者の声ではなかった。
研究者として確信を持つ者の、静かな確信そのものだった。
*
「素粒子……量子……?」
立花は復唱したが、言葉そのものの意味が頭の中を素通りしていく。
榊は机に肘をつき、指を組みながら言った。
「立花君。霊を“物語や信仰の産物”だと考えているのは、一般の話だ。
だが、我々の領域では違う。霊的現象とは“観測困難な情報エネルギーの偏在”だと考えられている」
「情報……エネルギー……」
「そうだ。
粒子のスピンや量子場の揺らぎを通して、場に残った“情報”が現象を起こす。
家具が動くのも、テレビの電源が勝手に変わるのも、そこに“意思”があるからではない。もっと単純で、もっと厄介な理由だ」
榊は背もたれに体をあずけ、わずかに窓の外へ視線を流した。秋の曇り空が灰色に沈んでいる。
「自然現象……なんですか」
「自然だ。しかし──自然には二種類ある。
人間の理解に収まる自然と、
まだ科学の観測範囲が追いついていない自然。
その後者が、俗に言う“幽霊”だ」
立花は息を呑んだ。
榊の語り口には、欠片の誇張も迷信もなかった。
「……先生は、見たことがあるんですか。こういう現象を」
榊は一瞬だけ沈黙し、薄く笑った。
笑っているのに、それはまるで表情が曇るようだった。
「研究者なら誰でも一度はあるさ。説明のつかない“データの歪み”に触れた経験がな。
ただ──私の場合はもう少し物理的だったが」
立花はぞくりとした。
教授の声は静かだが、その静かさがかえって恐ろしい。
「で、ですが……僕の部屋で起きたのは、本当に科学なんですか?量子とか、素粒子とか、そんな……」
「立花君。君は一つ勘違いしている」
榊は身を乗り出した。
目は穏やかなままだが、内側に鋭さが戻っている。
「科学というのは“説明できている領域”のことではない。“まだ説明できていないものを、説明しようとする営み”そのものだ。だから、君の部屋で起きた現象は──科学だ」
言葉の意味がじわじわと胸に染みこむ。
立花は拳を膝の上で固く握った。
「……じゃあ、僕は……何を見てしまったんでしょうか」
榊は短く息を吐き、椅子を回転させて本棚へ向かった。
古い専門書や論文の束の間に挟まれた黒いファイルを取り出す。
「これは、非公開の調査記録だ。大学が扱うには少々……刺激が強すぎる内容で、院生にも見せていない」
ファイルが机に置かれた瞬間、立花の背筋に冷たいものが走った。
「君の部屋で起きたことと、よく似ている。
いや──もしかしたら、同質の現象かもしれない」
榊はゆっくりとファイルを開いた。
そこには、ベッドの位置があり得ない方向へずれた写真。
家電が一斉に点滅している動画のキャプチャ。
壁に残された、焦げ跡のような謎の痕跡。
どの画像も、ひどく静かで、ひどく不気味だった。
「……これ……」
立花の喉が震える。
「君の部屋で起きたのは“始まり”かもしれない。
観測される以前、理論化される前の──純粋な、未命名の現象だ」
榊は、静かに言葉を重ねた。
「そして……君は、その観測者になった」
立花は何か言おうとしたが、声が出なかった。
部屋の空気が、急に狭く感じた。
榊は続ける。
「ひとまず、私が調査する。
だが、その前に──君の部屋を見せてくれないか。
現象がまだ残っている可能性がある」
立花はゆっくりと頷いた。
頷くしかなかった。
灰色の夕空の下、彼の世界は音もなく、静かに“別の領域”へと滑り始めていた。
(続く)
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