第2話 偽りの平穏と、放課後の均衡


翌月曜日の朝 東京近郊の私立高校、

その喧騒は貴一にとって常に「ノイズ」でしかなかった。 登校する生徒たちの、意味を持たない笑い声、ローファーが廊下を削る音、そして、窓から差し込む無遠慮な陽光。それらすべてから身を隠すように、貴一はいつものように教室の隅、窓際の席で古い技術雑誌を広げていた。


「おはよ、ハセ」


不意に、頭上からあの甘い香りが降ってきた。 顔を上げずとも分かる。瑞希だ。 しかし、その声は週末に自分の部屋で聞いた、あの震えるような湿り気を帯びたものではない。クラスの「中心人物」としての、薄く、硬く、コーティングされた明るい声だった。


「……ああ」


貴一は短く応え、視線を雑誌に戻す。 瑞希は、貴一の机の端に軽く腰掛けた。短いスカートの裾から伸びる、細く手入れされた脚。その白さが、埃の舞う教室の中で異様に眩しく浮いている。


「ねぇ、週末の課題、終わった? 見せてよー、理系科目のやつ」


彼女の背後で、彼女のグループに属する女子たちが、こちらを値踏みするような目で見ている。 「瑞希、またハセガワ君に絡んでるの?」 「意外とマメだよね、瑞希も」


瑞希はそれらの声を軽やかに受け流しながら、貴一にだけ見える角度で、一瞬だけ左目の端を細めた。それは、二人だけの「秘密」を共有しているという、共犯者の合図だった。


貴一は無言でノートを差し出す。 彼女がそれを受け取る瞬間、指先がわずかに触れた。 その一瞬の接触に、貴一の指先を昨夜のハンダごての熱よりも熱い何かが駆け抜ける。


「サンキュ! 恩に着るわ」


瑞希はノートを胸に抱え、派手な笑い声を上げながら自分のグループへと戻っていった。 彼女の背中を見送りながら、貴一は胸の奥に澱のように溜まった違和感を噛み締める。 学校での彼女は、完璧に「大野瑞希」を演じていた。親の愛に飢え、三千円の肉に怯える少女の姿は、どこにもなかった。


(……あれが、お前の生き方なんだな)


貴一は、自分の指先に残る彼女の体温を消すように、強く拳を握りしめた。 自分たちの関係は、あのアパートの薄暗い空間の中でしか成立しない。外の世界に出れば、自分は「根暗な特待生」であり、彼女は「華やかな女王」だ。 その絶対的な境界線が、今はなぜか、鋭利なガラス破片のように貴一の心に突き刺さっていた。


第9章:油の匂いと、静かなる侵食

放課後。貴一は、学校近くの小さな鉄工所でアルバイトをしていた。 父に頼み込んで紹介してもらった、古びた町工場だ。 旋盤が回る高周波の音。切削油の焦げる、鼻を突くような匂い。 貴一にとって、ここは唯一「自分の価値」を数字と手触りで確認できる場所だった。


「貴一くん、今日はこっちのバリ取りを頼めるかい」 「はい」


工場の主である老職人、佐藤が声をかける。 貴一は、粗い軍手をはめ、金属の破片を丁寧に削り落としていく。 無心。 ただ、目の前の物質と対話する。 もし、人間の感情もこのようにバリを取り、滑らかに削ることができたなら、どれほど楽だろうか。 母が出ていった日の、あの湿った空気。 名前を呼べなくなった父の、強張った背中。 そして、自分の部屋に「瑞希」という名の毒を持ち込んだ、あの少女。


「……ハセ、ここだったんだ」


不意に、工場の入り口に瑞希が立っていた。 夕焼けの赤い光を背負い、彼女の茶髪が炎のように揺れている。 制服のまま、場違いなほどの美しさを放って、彼女は鉄錆と油の匂いが充満する空間へ足を踏み入れた。


「……来るなと言っただろう。ここは遊び場じゃない」 貴一は手を止めず、冷淡に言い放つ。


「冷たいなぁ。ノート、返しに来ただけだよ。……あと、ちょっとだけ、一人になりたくなかったから」


瑞希は、工場の隅にある古い木箱に腰掛けた。 彼女の高級なスクールバッグが、油の染みたコンクリートの上に置かれる。


「見てなよ。ハセが働いてるとこ、見てるだけだから」


貴一は溜息をつき、作業を再開した。 旋盤の音が響く中、二人の間に言葉はなかった。 だが、視線の端に、じっと自分を見つめる瑞希の瞳がある。 彼女は、まるで吸い込まれるように、貴一の指先を見つめていた。 金属を削り、形を整えていく、無機質で、けれど確かな営み。


「……ハセの手、やっぱり綺麗だね」 瑞希が、独り言のように呟いた。


「油で汚れている。綺麗とは程遠い」


「違うよ。何かを作ってる手は、汚れてても綺麗なんだよ。……私の手なんて、お金を使って、誰かに媚びて、中身は何にも作ってないもん」


彼女は自分の掌を見つめ、力なく笑った。 その瞬間、工場の重機が立てる激しい振動と、彼女の儚い告白が混ざり合い、貴一の頭の中に奇妙な和音を響かせた。


「……瑞希」


初めて、外の世界でその名を呼んだ。 瑞希は、弾かれたように顔を上げた。


「……帰るぞ。もうすぐシフトが終わる」


「……うん」


二人は、夕闇が降りてくる街を歩き出した。 工場の油の匂いと、瑞希の香水の匂い。 決して混ざり合うことのない二つの香りが、夜風の中で複雑に絡み合い、消えていく。


第10章:父の帰宅、そして「亡霊」との対峙

アパートに帰ると、珍しく玄関に父・喜一郎の靴があった。 古びた安全靴。かかとが磨り減り、至る所に仕事の傷跡が残っている。


「……父さん、帰ってたのか」


リビングに入ると、喜一郎はソファに座り、テレビも点けずに暗闇の中で酒を煽っていた。 その視線の先には、例の、切り抜かれた家族写真があった。


「……貴一。また、あの子が来ていたのか」


喜一郎の声は、底冷えするような低さだった。 貴一は瑞希を玄関で待たせていたが、父の言葉には、抗いようのない威圧感があった。


「……ノートを返しに来ただけだ」


「名前が、瑞希というんだな」


喜一郎は、ゆっくりと立ち上がった。 仕事帰りの作業着から漂う、貴一と同じ油の匂い。だが、それはより重く、湿り、絶望の味がした。


「あいつ……お前の母さんも、最初はそうやって、俺の『静かさ』に惹かれたと言っていた。この、油臭くて、光の当たらない生活を、『落ち着く』と笑っていた」


喜一郎は、一歩、また一歩と、貴一に歩み寄る。


「だがな、貴一。あいつらは、結局耐えられなくなるんだ。光のない生活、数字と修理だけの日常。刺激を求め、色を求め、最後には俺たちの『静寂』を壊して逃げていく。……あの少女も同じだ。その茶髪も、香水も、ここには似合わない」


「……彼女は、母さんとは違う」


貴一は、初めて父に対して明確な反論を口にした。 自分の内側で、何かが熱く震えている。


「何が違う。同じ名前、同じような笑顔、同じような孤独を抱えて、お前の『欠落』に寄生しているだけだ。貴一、お前はあの子を救えない。俺が、あいつを救えなかったようにな」


喜一郎の言葉は、鋭利なドリルとなって貴一の胸を穿った。 父が恐れているのは、瑞希ではない。 瑞希を通じて、自分の中に眠る「母への憎しみ」と「捨てられた恐怖」が、再び目を覚ますことだった。


その時。 「……おじさん」


玄関にいたはずの瑞希が、リビングの入り口に立っていた。 彼女の顔は、幽霊のように青白かった。


「……おじさんの言う通りかもしれません」


瑞希の声は、震えていた。


「私は、ハセのこの部屋に、救いを求めて来ました。……ここなら、私の空っぽな心が、少しだけ埋まるんじゃないかって、ハセの『正しさ』を分けてもらえるんじゃないかって、思ってました」


彼女は、喜一郎の目を真っ直ぐに見つめた。


「でも、寄生してるのは私だけじゃない。ハセも……ハセも、私を見てる。私が壊れていくのを見て、自分の『正しさ』を確認してる。私たちは、お互いに、自分を保つために利用し合ってるだけなんです」


瑞希の言葉に、貴一は息を呑んだ。 それは、自分ですら気づかない振りをしていた、残酷な真実だった。 自分が彼女を拒絶しきれないのは、彼女の「無秩序」を見ることで、自分の「秩序」を再確認し、安心したかったからではないか。


「……帰れ」


喜一郎が、絞り出すように言った。


「二度と、この部屋の敷居を跨ぐな。……貴一。お前も、分かっているはずだ。この家には、もうこれ以上、誰かを受け入れる余地はない」


瑞希は、小さく頷いた。 そして、貴一の方を見ることなく、背を向けた。 玄関の扉が閉まる、乾いた金属音が響く。 それは、二人の間に築かれ始めていた「偽りの平穏」が、完全に砕け散った合図だった。


第11章:雨の境界線、名前を呼ぶということ

瑞希が去った後、部屋には以前よりも重い「沈黙」が戻ってきた。 父は自室に籠もり、貴一は暗いリビングに一人残された。


窓の外では、また雨が降り始めていた。 初夏の雨。それは、十年前、母が出ていったあの日と同じ、まとわりつくような雨だった。


(……これでいいんだ)


貴一は自分に言い聞かせる。 彼女をこれ以上、この泥沼のような過去に引き込んではいけない。 自分は、一人で生きていく。 数字と、論理と、金属の感触だけを信じて。


だが、引き出しの中に仕舞った、あのレシートの手触りが、脳裏から離れない。 赤いペンで描かれた、あの拙い花丸。 三千円の肉を諦め、自分の生活に歩み寄ろうとした、彼女の不器用な決意。


「……クソっ」


貴一は、衝動的に部屋を飛び出した。 傘も持たず、夜の雨の中へ。 アパートの階段を駆け下り、彼女が去っていった方向へ、必死に足を動かす。


なぜ追っているのか、自分でも分からなかった。 救いたいのか。利用したいのか。 それとも、ただ、彼女の名前を「呪い」ではなく「希望」として呼び直したいのか。


大通りに出ると、街灯の下、ずぶ濡れになって歩く彼女の背中が見えた。 瑞希は、あんなに大切にしていたブランドのバッグを地面に引きずるようにして、力なく歩いていた。


「瑞希!」


貴一の叫びが、雨音に掻き消されそうになる。 瑞希が立ち止まり、ゆっくりと振り返った。 その顔は、涙と雨でぐしゃぐしゃになっていた。


「……こないで。……ハセの言う通りだよ。私は、ハセを壊しちゃう。……お父さんの言う通り、私は、あの人と同じなんだよ」


「違う!」


貴一は、瑞希の肩を強く掴んだ。 雨に打たれ、彼女の体は驚くほど冷たくなっていた。


「お前は、あの人じゃない。……お前は、三千円の肉を我慢して、トンテキを美味いって笑った、大野瑞希だ。俺の部屋の掃除をして、レシートに花丸を書いた、ただの不器用なクラスメイトだ」


貴一は、彼女を抱きしめた。 濡れた制服が、肌に冷たく張り付く。 だが、その内側で燃えている彼女の鼓動は、確かに熱かった。


「……名前を、呼んで」


瑞希が、貴一の胸に顔を埋めて囁く。


「……呪いじゃなくて、私の、名前を」


「……瑞希」


 貴一は、祈るようにその名を口にした。 それは、十年間の沈黙を破り、彼が自らの意志で「誰か」を受け入れた瞬間だった。 雨は激しさを増し、二人の姿を街の景色から切り離していく。


 この夜、彼らは知った。 救いなどどこにもないことを。 ただ、冷たい雨の中で寄り添い合うことだけが、自分たちが唯一許された「抵抗」であることを。




Maybe it will continue?


▶▶▶▶▶▶▶▶

【作風:方向性思案中】


詠み専からの執筆の若輩者です。

これまで作品の拝読と我流イラスト生成がメインでした。

御意見:感想がの御指摘が閃きやヒントに繋がります。


  宜しくお願いします。 

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