壱の月

 アオイ・ハクロウの日常は、朝告鳥よりも早く始まる。まだ薄暗い部屋で手探りで単を着て、スカートを履く。足元は素足に沓だ。

 部屋は、祭祀礼館の最奥にある。誰にも見向きもされなかった倉庫のようなところだ。そこから月嶺森林に繋がる裏庭へと出て、井戸から水を汲んで顔を洗う。表の巫女たちには温かい湯が届けられるが、アオイの元にそういったものは届かない。

 昔は、アオイにも使用人がいた。ここ、祭祀礼館の下級祭祀官や、下位の巫女見習いなどがそうだった。けれど、彼らも最早アオイには見向きもしない。

 祭祀礼館とは、文字通り祭祀を司る場所だ。他大陸では神殿や教会などがそれに当たるらしい。小さな頃に叩き込まれた知識を思い出しながら、新しい水を汲む。大きな桶いっぱいに注ぎ入れて、それを両手で持ち上げると、ヨロヨロとしながら厨房へと運んでいく。

 飯炊きをする下級祭祀官や巫女見習いたちが起きだす前に、龜をいっぱいにしておかなければ。万が一遅れたら、また朝食を抜かれてしまう。

 昨晩も、仕事が終わったらもう何も残っていなかったのだ。さすがに朝食抜きは嫌だと、何往復かしてアオイは龜に水を張った。


(ふう……こんなもんかな)


 額に浮かんだ汗を手で拭って、アオイは厨房を後にする。手桶を井戸まで置きに行くと、すぐさま館内へと取って返す。

 もうすでに東の空が明るくなっていた。急いで正面玄関へと回り、箒で門から扉までの道を掃き清める。この広さ、本来なら一人で全部やるものではないけれど。でもこうして、客や信者が訪れる道を綺麗にすることは、アオイは嫌いではなかった。

 ただし、重ねて言うが、一人でやるものではない。

 このルナティリス月皇国の皇都中央都市にある祭祀礼館は、西に皇王城が隣接し、東に広大な月嶺森林を有する、国内でも最大の神殿だ。当然、仕えている人間の数も多く、その分建物の大きさも驚くほど。

 皇王城の東側、つまり祭祀礼館の西側には、上級祭祀官の寝泊まりする建物が設けられている。祭祀官は国の祭祀を司る者たちだ。当然国の中枢にも食い込んでいる。

 親元から離された頃、アオイも一年ほどその祭祀官用の建物で寝泊まりをしていた。今はもう、下級祭祀官や通常の巫女、巫女見習いが常駐している祭祀礼館の、さらに奥の方へと追いやられてしまったけれど。


「……いけない! 朝告鳥が鳴いてる!」


 コケー! という声が、そこかしこから立ち昇った。人々はこの声によって目覚め、日々の活動を開始する。それは、祭祀礼館の巫女や祭祀官も例外ではない。

 それよりも早く起きて働いているアオイはじゃあなんなのだと、考えだしたら体が動かなくなりそうで、アオイはぶるぶると頭を振って雑念を追い払った。

 清め終わった道を一瞬振り返り、そのまま箒を片して飼育小屋へと向かう。


「今日も、ありがとう。……卵、いくつか、もらうね」


 目覚めたばかりだというのにそのへんを元気に歩いている朝告鳥たちを観察しながら、給餌皿に餌を盛る。鳥たちが群がるその間に卵をいくつか麻の袋に詰めると、アオイはまた急ぎ厨房へと取って返す。

 この、朝告鳥たちに餌を与えることも、アオイは嫌いではなかった。

 本来なら、下級祭祀官か巫女見習いの仕事だが、朝告鳥たちは簡単に卵を取らせてはくれない。意外と好戦的な彼らは、気に食わない相手だと集団で攻撃を仕掛けてくる。

 だが、なぜかアオイ相手だと、いくらでも卵を取らせてくれるのだ。だから当番制のはずのこの仕事も、毎日アオイが担当することになってしまった。


「あの……卵、取ってきました……」


 厨房の裏手の扉から中にいる巫女見習いに声をかける。扉が開いて、顔を出した巫女見習いは、アオイを見ると露骨に眉を顰めてみせた。彼女は半年前に祭祀礼館に見習いとして入ってきた子だ。


「あら、カグヤ様じゃないですか。ずいぶんとゆっくりされてたんですね。……仕事が遅いってサイッアク」


「……ぁ……っ、」


 手に持っていた麻袋をひったくられた。見習い巫女の爪が肌を掠め、アオイの腕に傷を作る。薄っすらと血が滲んだその腕を嫌そうに見つめ、彼女はそのまま厨房の扉を閉めようとした。


「待っ……待って! わたしの、朝ごはん……」


「はあ? こんなに仕事が遅いアンタに朝食なんてあるわけないじゃない」


「で、でも……昨日の夜も、何も無かったの……これじゃ働けない……」


「そんなの、仕事が遅くて鈍臭い御身を恨みなさいよ!」


 扉に負い縋って懇願するアオイを侮蔑の瞳で見下ろして、彼女はアオイの肩をドン! と押し返す。


「あ……っ」

 

 普段あまり食べられないアオイの筋力は、他人よりも弱い。地面に尻もちをついて呆然と見上げるアオイを鼻で笑い、見習い巫女は扉をバタンと閉めてしまった。


「……っ、ふ、ぅ……ど、して……」


 地面に座りながら、アオイはこみ上げる嗚咽をなんとか噛み殺す。朝からこんなことで泣いていたら、夜まで保たないことを彼女はもうずっと前から身に染みて理解していた。


(泣いちゃだめ。泣いちゃだめ。泣くなら、月神の杜まで我慢して、アオイ)


 ここにいる人間に涙なんか見せたくない。

 アオイは人見知りで、気が弱い。昔はこんな性格ではなかったけれど、ここにいる間に変わってしまった。

 でも、だからこそ。自分が弱いとわかっているからこそ、ここで泣く姿なんか見せたくなかった。

 地面に付いた手のひらを、砂ごとぎゅっと握りしめる。ノロノロと起き上がると、祭祀礼館の裏手の井戸で手を洗った。

 このあとは、参拝に来る人々のために、館内を清掃しないといけない。こんなことで立ち止まってはいられない。

 砂まみれになってしまった赤いスカートもパンパンと払い、礼館内部の参拝所に向かう。水を汲んだ桶を持ち、雑巾を絞って参拝所を拭き清めていく。

 もうすぐ、礼拝の時間だ。早く終わらせないと、一番乗りの参拝者と鉢合わせることになる。

 祭祀官たちは、アオイが参拝者と顔を合わせることを、快く思っていないようだった。うっかり遭遇でもしてしまったら、後でどうなるかわからない。しばらく部屋から出してもらえないかもしれない。

 それは、困る。困るし、嫌だ。食事を自分でどうにかしないといけない分、アオイは外に出られなくなったら終わりだから。

 それに――。

 ササッと掃除道具を片付けて、参拝所を後にする。扉が閉まる直前に、アオイは中に据え付けられた女神像を見上げた。そこにいないとはわかっていても、アオイは女神に聞きたいことが山ほどあったのだ。

 

 廊下をぼんやりと歩いていた。先ほど考えたことを、また考える。いつも考えていることもずっと考えている。

 どうして。どうして?

 どうしてわたしはここに呼ばれたんだろう。

 どうしてわたしが選ばれたんだろう。

 どうしてただ生きるのがこんなに辛いんだろう。

 どうしてどうしてどうしてどうして。


「どうして、わたしの力は覚醒しないんだろう……」


 この東の大陸は月の女神セレナリアを信仰が篤い土地だった。その他の神を信仰している場合もあるが、それらはいずれもセレナリアに連なる複神だ。故に、東大陸は月神信仰の地とされている。

 この世界の名はアストルディア。

 東西北の三つの大陸と、南に五十を超える島々があり、四柱の主神と、多数の複神、そして一柱の闇神の存在で成り立っている。

 北の大陸は星の女神ステシアが守護する土地と昔に教わった。その中でも、ルナティリス月皇国と交流のあるポーラリア星王国では、星の力を宿した者が力の大小に関わらず複数誕生するのだとか。

 アオイの住まうルナティリス月皇国は、ポーラリア星王国とは真逆だった。

 魔力を持つのはこの世界の常識。魔力がなければ生きていくこともままならないから。

 けれど、大陸を守護する主神の力をその身に宿して生まれてくるのは、どんなに歴史書を紐解いても、その代に於いてただひとり。

 神に愛され、神の代弁者となる、国の巫女の頂点に立つ者。

 

 ――カグヤ。


 空に浮かぶ月がひとつであるように、月の力もひとりの人間にしか宿らない。

 星の女神ステシアの星の力が浄化の力なら、月の女神セレナリアの月の力は豊穣の力。それから、共通しているのが癒やしの力。

 カグヤがいるだけで、大地は癒やされ潤い、作物が育ち、木々は溢れんばかりに実を付ける。

 飢饉も凶作も、カグヤの恩恵さえあれば、何も恐れることはない。

 ない――はずなのに。


「……あっ!?」


 考え事をしながら、ぼんやり歩いていたせいで、足が何かに引っかかったことに気が付かなかった。

 そのまま廊下に頭から倒れ込む。手に持っていた桶が盛大に転がり、廊下に水たまりができる。

 アオイは慌てて身を起こした。自分自身も頭から汚水を被ってしまったが、それどころではない。

 祭祀礼館は木造だ。廊下は白木でできている。早く拭かなければ水分を吸って大変なことになる。

 飛んでいった雑巾で慌てて水分を拭き、絞る。そんなアオイの頭の上から、忍ぶような笑いが降ってくる。


「やぁねぇ。相変わらず鈍臭いのだから。ねぇカグヤ様?」


「本当ですわね。こんなのが今代のカグヤ様だなんて、セレナリア神もお目が狂ったのかしら」


 クスクスクスクス。笑う――いや、嗤う声にアオイの心臓がぎゅっと竦み上がる。

 廊下を拭き続ける手が握られ、雑巾がクシャリと歪んだ。


「……セレナリア様のことを、悪く言わないでください……」


 ハッとして、唇を噛む。

 俯いたまま、思わず呟いていた。それが彼女たちに聞こえていたら、と思うと恐怖でカタカタと手が震えてしまう。


「はい? なにか仰いました? まさか、わたくしたちに歯向かうおつもりですか?」


「冗談ですわよね? たかが庶民の、それも力を使うこともできない、落ちこぼれのカグヤ様が!」


 彼女たちは、アオイが引き取られる前から、この祭祀礼館に仕えていた古株だ。

 初めて会ったときは、巫女見習いだった。名のある名家の出の彼女たちとは初っ端から気が合わなかったのだが。

 それでも、アオイがカグヤに選ばれたということは聞かされていたのだろう。幼いながらも表面上はとても良く仕えていた。

 ――表面上は。

 裏では小さなイジメが絶えなかった。カグヤのために差し入れられたものは、彼女たちが全部持っていった。着替えのときに、見えない位置を強く抓られて、青痣に泣いたこともあった。

 一年経ってもアオイが月の力を使いこなせないとわかったときには、嬉々としてアオイをこき下ろしたものだ。


「ああ、そうですわ、カグヤ様? 今日は下位の巫女見習いも下級祭祀官も連れて、皇王城へ参りますから。後のことはカグヤ様お一人で全て終わらせておいてくださいね?」


「ふふっ、カグヤ様ですものね! それくらい簡単でしょう?」


「まずは、全ての洗濯をあと半刻で終わらせてくださいませね?」


 その言葉に、アオイは大きく目を見開いた。

 そんなの、どう考えても無理だ。この祭祀礼館にいったいどれだけの部屋があるのか、どれだけの人間がいるのか、巫女見習いだった彼女たちは知っているはずなのに。


「あなた様がお一人でやると言っていたこと、上級祭祀官様方にお伝えしておいて差し上げますわ」


「そ、そんな……!」


 アオイは思わず声を上げた。

 この広い祭祀礼館の仕事をアオイ一人でなど到底終わらない。

 しかも、それを上級祭祀官に伝えられたら、終わらなかった時にどのような罰が下るのか想像もできない。

 このままでは本当に、部屋から出られなくなるかもしれない。最悪、このままでは死――。

 そこまで考えて、アオイは床を見つめた。肩から力が抜ける。


(そっか……早く、死んでほしいんだ……)


 そうすれば、出来損ないの落ちこぼれカグヤはいなくなる。そして数年我慢さえすれば、次代のカグヤがまたどこかで誕生するのだ。

 それが本当に数年先なのか、それとも十数年、数十年先なのかは、知らないけれど。すべては女神セレナリアの御心次第だ。

 でも、死んでしまうのならもう、アオイにそんなことは関係ない。


(そっか……そっかぁ……)


 ノロノロと頭を上げ、先輩巫女の顔を見た。アオイと違い、手入れのされた肌に、艶のある髪。指先は白く、爪は形が良く綺麗。

 ボロボロの自分の手とはまったく違う、上流階級の、年頃の女の子の手。

 先ほどアオイに足を引っ掛けた巫女に薄く笑い、アオイはゆっくりと床に額を擦りつけて頭を下げた。


「わかり、ました……」


 そのアオイの姿に鼻白んだ表情を見せ、巫女たちは背を向けて去っていく。

 気配が遠ざかったのを確認してから、アオイは顔を上げた。床に座り込んで、柱に寄りかかる。はは……と力無い笑いが喉を突いて零れ落ちる。

 こんなにも……。本当に、まさかこんなにも疎まれているなんて。気付きもしないでのうのうと生きていた自分が、馬鹿みたいだ。


(ああ……イツキさんに、会いたいなぁ……)


 数ヶ月前、夜の静寂で出会った月下の麗人。彼を思い出して、無性に会いたくなった。あの日から、夜には何度かあの社でイツキに遭遇している。

 「また」と言われた言葉の通り、アオイが社に行くたびに、イツキはそこにいた。もしかしたら、毎日来ていたのかもしれない。アオイは毎日顔を出すことなどできなかったけれど。精々がひと月に一回から二回程度。だから、会った回数はそんなに多くない。

 でも、偶然が偶然ではなく、必然に変わる。

 夜のそのひと時だけは、アオイは心から安心することができた。安らかでいることができた。楽しかった。

 イツキに会いたい。もう一度会って、その姿を目に焼き付けておきたい。

 礼拝者と対応する巫女以外、誰の気配もなくなった祭祀礼館で食事も休憩も取らずひたすら働いて、アオイは夜中にトボトボと月の杜まで歩いていくのだった。

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