推しのヒーローが戦う世界に転生したけど、原作を壊さないためモブになります
山城京(yamasiro kei)
第1話 プロローグ
「廃病院ってわけじゃないだろうに……」
呟いたのは、彼が目を覚ました直後の事だった。
鼻を刺す消毒液の臭いからここが病院という事はすぐにわかった。だがそれ以上のものは何も掴めない。
どうしてこんなにも荒れ果てているのか、人の気配がないのか、何故ここにいるのか、全てが判然としない。
「俺は、誰だ……?」
それすらもわからないのだから、笑うしかなかった。
脳みそをシェイクされたような気持ち悪さの中ふらりと立ち上がった瞬間、酷く不快な臭いがした。タイヤが溶けたような、喉をえづかせるような臭いだ。
――べチャリ。
廊下の奥から不快な粘着音を奏でながら、黒い液体が近づいてきていた。
「な、なんだ……?」
脳が理解を拒絶するような光景だ。そんな光景、現実ではあり得ない。なのに、頭の中にはどこかそれを「知っている」と囁く自分がいた。
そうした不可解な感覚もあって、逃げるという選択も取らずにただぼうっと立っていた。そうこうしている内に、黒い液体はゆっくりと人の形を取っていった。
骨のない指、皮膚の代わりに蠢く影。口が開くたび、焦げたゴムの臭いが広がる。
彼はまだ動けずにいる。いいや、正確には動かなかった。ただ、割れた窓ガラス越しに空を見上げていた。
「赤い、月……」
輝く月が立ち尽くす彼を血のように赤く染めていた。
見続けていると、胸の奥がざわついた。既視感。何度も見たような気がする。
「ああ、そうか」
不意に、彼の頭を覆っていたモヤが晴れた。
あの赤い月は画面越しに何度も見てきた光景だったのだ。
(ここは、《ルナ・クライシス》の世界なんだ)
セリフを覚えるほどにプレイしたゲーム作品だ。目前に迫っている危機が虚人と呼ばれる敵である事も理解できる。だが、理解した時には遅かった。黒い腕が振り下ろされようとしていた。
「うわっ!」
それを阻止したのは、一人の少女だった。横合いから現れ、彼の身体を引っ張った。
制服姿の見知らぬ――いや、知っている顔。腰まで届く金色の髪に、意思の強そうな蒼い瞳。名前はアイリス。《ルナ・クライシス》の登場キャラクターだった。
「逃げて!」
アイリスは左手の甲を突き出し、小さく息を吸って右手の短剣をそこへ突き刺した。
短剣を中心に手の甲に蒼い聖印が広がる。途端、病院の照明が一斉に消えた。緑色の非常灯だけが点き、外の夜空が窓に映り込む。
赤い月が、怪しく光り輝いていた。
「
アイリスの身体が光に包まれた。
青白い粒子が皮膚を覆い、髪が宙に浮かぶ。光の下から、白と蒼の装甲がせり上がる。
純白の騎士を思わせるその出で立ちは人間ではない。けれど、美しかった。
紛れもない。あれはモニター越しに見て憧れた“ヒーロー”の姿だった。
「いくよ!」
アイリスが踏み込む。
金属の腕が閃き、衝撃波が待合室を吹き飛ばした。
黒い肉が弾けて壁に叩きつけられる。それだけで虚人は完全に、これ以上なく絶命した。
特に必殺技を放ったわけではない。言ってしまえばただのパンチだ。しかしそれだけ で怪物を倒す。それこそがアイリスが駆る白(しろ)騎士(きし)の圧倒的なまでの力の証だった。
「ふう……」
光の粒子が弾け、中からアイリスが現れた。彼女は腰を抜かして地面に座り込んでいる彼を見て「大丈夫?」と問いかけた。
「大丈夫じゃないかもしれない」
「どこか怪我しちゃった?」
そう言ってアイリスは彼の身体をあちこちまさぐった。純粋な心配からくる行為だったが、胸だの尻だのも触るものだから、彼はすぐに微妙な顔をしてこう言った。
「いや、身体はたぶん大丈夫。問題なのはここ」
そう言って彼は自身の頭を指した。するとアイリスは息を飲むというなんともわかりやすい驚きを見せた後、彼の周りをうろちょろして観察した。
「違くて。俺、記憶がないんです」
「記憶って、あの記憶?」
「どの記憶か知らないけど、とりあえず名前もわからないですね」
「ええええええええ!」
○
「それで、どうするの?」
とは向かい側の席に座るアイリスの言。病院を後にした二人は、とりあえず落ち着いて話のできる場所を、という事で喫茶店に移動していた。
アイリスの奢りによって提供されたコーヒーを「どうしましょうね」なんて言いながら呑気にすする「彼」は、言葉とは裏腹に自身の置かれた状況を理解しつつあった。
つまるところ、異世界転生なのだろう、と。
問題は「彼」の前世がわからない事だ。この世界を《ルナ・クライシス》だと認識したという事は、少なからずそれを見ていた前世があるはず。しかし何も思い出せなかった。
(まあいいか。記憶が中途半端にあるよりはいい)
差し当たって重要なのはこの世界が《ルナ・クライシス》であるという事だ。
大人向けを標榜して作成されたヒーローものゲームで、いわゆるゲーム性のある美少女ゲームというやつである。
世界観としては現代日本を舞台に《ヴォイド》と呼ばれる悪役を、アイリスのような《
そんな中でも、アイリスという少女は徹頭徹尾、光の存在として描かれていた。誰よりもヒーローらしく、弱きを助け強きを挫く。困っている人がいれば見過ごせない、そんな人だ。
眼前で記憶喪失だという人がいれば放って置くなんて選択肢はあり得ない。だからこそこの状況が生まれているわけだが。
「どうしましょうね、って君。イマイチ危機感ないな~」
「そう言われましても」
「住む場所はどうするの? お家わかんないんでしょ?」
「あ、それならご心配なく。行政を頼るつもりですので」
「そういう記憶はあるんだ……」
これからどうするか、何も考えていないが、「彼」は一つだけ決めていた。
絶対に、《ルナ・クライシス》の本筋には絡まない。
徹頭徹尾、観客に徹するつもりだ。
この世界のストーリーはよくできている。幾度も訪れる危機やトラブルを主人公が様々な登場人物達と協力して解決していくのだ。
そのバランス感覚というものは、地雷原をタップダンスしながら走るのもかくやという薄氷のごとき感覚だ。だから、
(余計な事して原作が変わるなんて二次創作の王道を踏むつもりはない)
それに何より「彼」は、推しは外から眺める派だった。
「ですから、このコーヒーを飲み終わったらさようならです」
本当だったら、モブですらない自分がこうして推しと同じ席に座っているだけで解釈違いだ。今こうしているのは、アイリスが強引に「彼」を誘ったからに過ぎない。
「いや、ですからじゃないよっ。絶対だめだから! 君が生活できるようになるまでわたしの家で一緒に暮らそ?」
アイリスという光の少女の悪い面が出てしまった。彼女は困っている人を絶対に放っておけないのだ。
「いやいや解釈違いです! ん? 解釈通りなのか? いやそんな事はどうでもいい、絶対に一緒になんて暮らしませんよ!」
「どーしてさ? あ、女の子と一緒じゃ緊張して眠れないとか?」
「そういうのはないですけど……」
今が原作でいう何時なのかはわからないが、そう遠くない日、危機は訪れる。その時に「彼」という不純物がいればストーリーがおかしくなる。などと正直に話せるわけもなく。
「なら決まり! 心配しないでも、一緒に記憶を探してあげるから」
結局は彼女のおせっかいに押し切られてしまった。
「はあ……どうしてこうなるんだ……」
「そういえば、いつまでも『君』って呼ぶのも不便だよね。わたしが名前付けてもいい?」
「お好きにどうぞ……」
アイリスは顎に指を当てて暫し考えた後、
「じゃあ、『アキト』、ってどうかな?」
「っ!」
奇しくもその名前は彼がプレイヤーとして《ルナ・クライシス》をプレイしていた時に主人公につけた名前と同じ名だった。
いずれ現れるであろう主人公が同じ名前とは思えないが、あまりにも恐れ多い名前。すかさず断ろうと思った。しかし、
「どうしたの? イヤだったかな……?」
不安そうに揺れる蒼の瞳に、「アキト」が否などと言えるはずもなかった。
「いいや、とても素晴らしい名前をありがとう」
「ほんと? なんかピンときたんだよね。アキトって顔してる」
「どういう顔ですか……」
ふと、頭の奥で繋がる感覚があった。それは思い出すべき事で、同時に思い出したくもない類の記憶だった。
――アイリスは、原作開始時点で死んでいた。
主人公が物語に現れるその前に、すでに退場している人物。それがアイリスだ。
彼女の死によってしか紡がれない「続きの物語」は数え切れない。万が一にでも死を回避してしまえば、どのような不都合が生じるかなど想像に難くない。
その設定を思い出した瞬間、コーヒーの香りが妙に遠くなった。
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