宝石継ぎのレティシア ~聖女の遺言と、宝石花のゆりかご~

malka

プロローグ 『魔女の遺言、それは蜜月と喪失の始まり』

「私が赤ん坊になったら、誓言を紡ぐ喉を潰して、殺しなさい」


 聖女レナータは自身の白く細い首筋に指を這わせて、艶然と微笑んだ。

 夕暮れに白銀の髪が靡く。

 彼女は懇願などしない。ただ、命令を下すだけ。

 道具である私――魔導人形への、絶対的な命令を。


「……聞こえているのかしら? 私の可愛い、ポンコツちゃん」


 返事ができない。私の発声機構は正常。けれど、今、彼女に返すべき言葉が分からない。



 彼女は、世界を救った。

 荒れ果て穢され尽くした、忌まわしき『厄災』の源たる地を、地平の果てまで宝石の樹海に閉ざして。


 天地を覆っていた厄災、『秩序』を乱すモノ共は消え失せ、雲の切れ間から黄金色の陽光が差し込んでいる。

 その光の中で、眩く煌めく色とりどりの輝きに包まれる、純白の聖なるドレス。守護する私の戦闘の余波で飛び散った、返り血のようなどす黒い穢れの跡に汚れてなお、女神のように神々しい。



 しかし、彼女が立っていられる事がそもそも不思議なのだ。

 彼女の身体からは、すでに『時間』が零れ落ち始めていた。

 全身から舞い散る、青白い燐光。


 これから歩む未来、そして歩んできた時間の全て。それが、彼女が世界を救うために支払った代償。


 いわば、逆行の呪い。

 見渡す限りの全て、破滅の源を祓った、彼女が成した『奇跡』。

 神代には魔王や邪神の誕生とも言われたであろう、世界を滅ぼす厄災の大元。『変質』因子の発生源根絶。


「あ、あぁ……」


 私の喉から、かすれた音が漏れる。駆け寄ろうとした足がもつれ、無様に膝をついた。さらりとこぼれ落ちる、長い黒髪。

 硬質な膝の球体関節が、元は穢れに侵された瓦礫であり、今はただ美しいだけの真紅の宝石を砕く感触がした。

 私の瞳のような、薄赤色の破片が飛び散る。痛みはない。私は人形だから。

 けれど、胸の奥にある『魔核・心の核』が、焼き切れるほど熱い。


 彼女が、ゆっくりと歩み寄ってくる。

 ヒールが鳴らす、カツ、カツ、という乾いた音が、私の鼓動と重なる。


「泣かないの。見苦しいわよ」


 冷ややかな声。けれど、私の頬に触れる手は、驚くほど優しかった。

 汚れと、魔素の匂いに、彼女特有の甘い香水の香りが混ざり合い、鼻腔をくすぐる。


「貴女には、役目があるでしょう?」


 彼女は燐光舞い散る手で、一冊の分厚い本を私に押し付けた。

 黒い革表紙。戒めるような刺々しい銀の鎖。

 ずしりと重い、魔導書のような装丁。

 表題はない。


 およそ聖女が持つに似つかわしくない、闇めいた本。


「これは……」

「私の日記、『遺言書(きおく)』よ」


 彼女は、悪戯を見つけた子供のように目を細めた。


「明日から、いいえもう今この時にも、私は私でなくなっていく。魔法を忘れ、言葉を忘れ、貴女への想いさえ忘れて……束の間の新たな記憶は一睡の間に実感を失う」


 しっとりとした指先が、私の唇をなぞる。

 そこには諦めと、狂おしいほどの執着が混ざっていた。


「だから、貴女が覚えていなさい。私がどれほど偉大で、どれほど残酷で……そして、どれほど貴女を愛していたか」


 ドクン。

 人形にあるべからざる鼓動が、胸の奥で跳ねた。

 愛。それはわかる。

 レナが……レナータが、ずっと、ずっと教えてきてくれた。


「この日記を読み聞かせなさい。毎日、毎晩。記憶を失っていく私に、私が何者だったかを教え込みなさい。……そして」


 彼女の顔が近づく。長い白銀の睫毛。宝石のような蒼銀の瞳。

 その奥で、理性の光が揺らめき、今にも消えそうに瞬いている。


「私が言葉を持たない赤子になったその瞬間。……私が私となった元凶、神と交わす誓言を紡ぐ喉を。『聖核』を潰して、私を殺して」


 彼女は私の耳元に唇を寄せ、呪いを吐くように囁いた。


「誰にも渡さないで。私の最期は、貴女だけのものよ」



 世界を死と闇の底へ変質させる厄災から取り戻された陽光が、宝石の樹海をきらきらと透かし、虹色の輝きがあたりに満ちる。


 この日。

 人類は救われた。


 たった一人の、人々に『救世の巡礼聖女』などと呼ばれた『魔女』の奇跡によって。

 あるいは、それは穏やかな破滅を、決定づけたのかもしれない。

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