第10話「春を待つ」
第10話「春を待つ」
空気が違った。病院の消毒液の匂いでも、雪山で吸った痛いほどの冷気でもない。麓の空気は、湿り気を帯びていて、鼻の奥に土の匂いと草の芽の予感がする。瑞希はゆっくりと深く息を吸った。胸の中に、確かな生が戻ってくる。
「ただいま、かな」彼女は小さく笑い、手元の小石を転がした。小石は冬の名残で粉をふいたように白っぽく、指先に冷たく触れた。そこから見上げる吾妻連峰は、あの日よりも穏やかに見えた。雪がまだ多く残るが、稜線の縁に薄い暗みが差し、どこかで雪解けが始まっているのが分かる。
「瑞希さん、お久しぶりです」背後で誰かが声を掛けた。振り返ると、古賀が立っている。手には Thermos の水筒と、よれよれのマフラー。顔つきが少し柔らかくなっていた。
「来てくれたんだ」瑞希は目を細める。光の中で古賀のまつげに雪解け水の粒が光った。
「行くよって言ったでしょ。あなたが山から戻ってから、ずっと一緒にいるって」古賀は言葉を詰めながらも、はっきりと言った。声の端に、病院で見せたあの嗚咽のあとが残っている。
二人で歩き始める。靴底がざくっと雪のぬかるみを掻く音。風はまだ冷たいが、日差しは柔らかい。雪の反射で目が眩むことはなく、代わりに目元に小さな温度を感じる。
「ここが、助けられた場所だよね」古賀が指差す先に、小さな窪みと踏み固められた痕跡が見える。救助隊が使った足跡、ブランケットの跡。土と雪の境目に、小さな黒い布片が引っかかっていた。
「うん」瑞希はその場所に立ち、両手をポケットに入れる。掌がまだ少し震える。だが震えは恐怖ではなく、確かな生の震えだった。
「覚えてる? 光が見えたとき、声がして」古賀が柔らかく言う。声は遠い夜の音を呼び起こすが、今は暖かい記憶として拾われる。
「うん。誰かが怒鳴るように“しっかりしろ”って言ったんだ。怒鳴りじゃなくて、鼓舞するような声で」瑞希が笑って言うと、古賀も微笑んだ。二人の間に、沈黙がしずくのように落ちる。沈黙はもはや重さを持たない。むしろ、言葉にできなかったものが柔らかく溶けていくような沈黙だった。
風が通り、雪の粒が舞う。顔に当たる瞬間、瑞希は目を閉じた。冷たさが皮膚を刺す。だが同時に、そこに春の匂いが混じっていることに気づく。凍てついた世界に、確かな変化が進んでいるのだ。
「退院してから、どう?」古賀が訊く。問いは優しく、しかし核心を突く。
「日々がだいぶ違う。朝が苦じゃなくなった」瑞希は答える。言葉に含まれるのは小さな驚きだった。「洗い物が苦にならないとか、コーヒーの温度をちゃんと気にすることとか。ちっちゃなことだけど、全部が大切に思える」
「それって、いいことだよ」古賀がうなずく。「大きな変化じゃなくて、日々の積み重ねが良くなってきたんだね」
二人はしばらく歩き、山の裾にある小さな祠の前に立ち止まる。祠の扉には、誰かが結んだ古い赤い紐が風に揺れている。瑞希はその紐に手を伸ばし、そっと触れた。糸の感触は粗く、指に小さなぬくもりが伝わる。
「ばあちゃん、見てるかな」瑞希はつぶやく。声は祠の木に吸い込まれてゆく。
「きっと、笑ってるよ」古賀は即座に返す。「あなたが帰ってきて、ちゃんと息をしてるんだから」
瑞希は笑った。笑いは雪解けの音のように柔らかかった。胸がじんと温かくなった。彼女は目を細めて、遠くの稜線を見た。雪の白さの奥に、黒い筋が見える。その筋の先には、確かに地面が顔を出している。
「ここに来たのは、逃げるためじゃなかったんだ」瑞希は静かに言う。「ばあちゃんに言われた約束を探すためだった。自分の呼吸のリズムを見つけるため」
「それって、つまり?」古賀が促す。
「つまり、私はもう、人の目で生きないってことかな」瑞希が答える。言葉は軽く、しかし重みを持って落ちる。「評価のためでも、誰かの期待のためでもない。私が気持ちよく呼吸できる日常を探すこと。ここで見つけられたかどうかは、まだ分からないけど、探す理由は見つけた」
「探すっていい言葉だね」古賀が笑う。「逃げるよりずっと勇気がいる」
瑞希は視線を祠に戻し、目を閉じた。掌に伝わる紐の粗さが、手を現実に引き戻す。耳に入るのは、遠くの小川のせせらぎと、足元で雪が融ける音。五感は細やかに、だが確かに働いている。
「また山に登る?」古賀が小声で訊く。
「分からない。でも、今は麓でいい」瑞希は答える。風が頬を撫で、頬の血色が少し戻るのを感じる。「山が私を拒んだんじゃなくて、私が山で何かを見つけた。だから、それを持って帰りたい」
「戻ってきたくなったら、いつでも行こう。今度は一緒に登るよ」古賀の言葉には強さがあった。二人の未来はまだ不確かだが、その不確かさはもう恐れではない。
瑞希はもう一度深く息を吸った。空気が肺の奥で波紋を広げ、その波紋が胸の底の傷を少しずつ撫でる。陽射しが洩れ、雪の輝きが少しずつ眩しさを増す。山の陰に隠れていた春は、確かに足音を立てて近づいている。
「逃げるように来た場所で、私は生き直すことができた」瑞希が囁くと、風がこたえるように木の枝を揺らした。言葉は小さくても真実だった。
二人はゆっくりと祠をあとにし、村へと続く道を下り始める。足元の雪がザクザクと崩れる音。背中に背負ったものは軽く、しかし確かな質量を持っている。春を待つことが、彼女の新しい仕事になる。
振り返ると、吾妻連峰は静かに佇んでいた。雪に覆われたその表情には、厳しさと慈しみが混じっている。瑞希はそっと笑い、歩幅を整えた。風の匂いが鼻に届き、土の香りがさらに濃くなった。
物語は終わらない。だがこの場面は、静かな再出発を告げる幕切れだ。春はまだ遠いかもしれない。それでも瑞希の胸には、小さな芽が確かに息づいていた。
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