史跡崩壊

霧島猫

第1話 静かなる夢と予期せぬ悪夢

増岡健三の腕時計は、朝の七時をわずかに過ぎたところを示していた。真新しい銀色のケースがきらりと光る。建設現場の喧騒が始まるにはまだ少し早い時間帯だが、彼にとっては定刻だった。現場の片隅に設置した、簡素な事務机の前に座り、健三は丁寧に折り畳まれた青焼き図面を広げた。図面の上に置かれた朱書きの文字が、彼の胸に小さな誇りを蘇らせる。「アーバン・コート健心」。彼の全財産と、長年の建築士としての経験、そして真面目な人生の結晶がこの一枚の紙に凝縮されていた。


六十五歳。健三は今年の二月、四十年近く勤めた中堅の建築会社を定年退職した。退職金はわずかではなかったが、高度成長期の恩恵を知る世代としては少々寂しい額だった。古くなった自宅を売却し、退職金と合わせてかき集めたのが六千万円。これが、彼の老後の全てだった。妻には先立たれ、子供もいない。一人で余生を送り、わずかでも収入を得て暮らすため、彼はこの小さなアパート経営を選んだ。


彼は誰よりも、土地の性質を知っていた。アパートを建てるこの土地は、かつて八賀川の支流が蛇行していた低湿地帯であり、地盤は軟弱な粘土質だ。だからこそ、杭基礎は絶対に譲れない構造だった。設計図には、堅固な支持層まで達する十本のコンクリート杭が、しっかりと描き込まれている。彼は机から立ち上がり、手で図面を軽く叩いた。建物の基礎が、彼の人生の基盤そのものに見えた。


「よお、増岡さん。早いな、もう張り付いてんのか。」


現場を仕切る下請け業者の監督、田端が声をかけてきた。額に汗を浮かべた田端は、手ぬぐいで首筋を拭う。


「ああ、田端さん。基礎は家の命だからな。地盤が柔らかいから、削孔位置は厳密に頼むよ。」


健三は腕を組み、図面を見ながら釘を刺した。彼の几帳面な性格は、現役時代から変わらない。田端は苦笑いした。


「わかってますよ、元一級建築士様。しかし、増岡さんが事前に教育委員会に相談してくれてよかったですよ。あの試掘調査がなかったら、どうなってたか。」


健三は頷き、わずかに目を細めた。これが彼が抱える、最初の小さな懸念だった。

この土地は、八賀市が発行する埋蔵文化財包蔵地の地図には載っていなかった。しかし、健三は長年の経験から、この低湿地が過去に水田や集落に適していた可能性を疑っていた。最悪の事態を避けるため、彼は着工前に八賀市教育委員会の文化財課に相談に出向いた。


「このあたりは包蔵地ではありませんが、念のためトレンチを掘って確認しましょう。」


文化財課の職員は慇懃な態度でそう言い、公費で試掘調査を実施してくれた。結果は「異常なし」。数カ所に掘られた幅一メートルほどのトレンチの底からは、近代の堆積土と粘土質の地層しか現れなかった。職員は「これで安心ですね」と笑い、健三も心から安堵した。これで、無駄な出費も、工事の遅れもない。彼はその職員に深々と頭を下げたのだった。


「杭打ちの準備、始めます。」


田端の声に、健三は図面を畳み、事務机の隅にレコーダーを置いた。妻が健在だった頃に使っていた古いテープレコーダーだ。彼は建築業の厳しさを知っていた。万が一、契約上のトラブルがあったときのため、彼は誰との会話も記録に残すことを習慣にしていた。それは一種の職業病であり、彼自身の真面目さの証でもあった。


ユンボのエンジンが唸りを上げ、工事が始まった。


三週間後の穏やかな午前中、事件は起きた。

健三は現場の隅で、缶コーヒーを飲みながら、杭を打ち込む様子を眺めていた。掘削機が、地下の土を削り取り、杭を埋め込むための穴を掘り進める。深さ三メートルを超えたあたりだった。機械が突然、妙な抵抗に遭い、エンジン音が鈍く変わった。


「おい、どうした?」


田端が作業員に声をかける。削孔機から引き上げられた土は、いつもと様子が違っていた。


「あれ...なんか、色が変だぞ。」


作業員の一人がつぶやいた。周囲の茶色い粘土層とは明らかに異なる、黒く、しっとりとした泥土がバケットの先端にへばりついていた。その黒い泥からは、何か人工的なものがのぞいていた。

田端は一瞬で顔色を変えた。


「止めろ! 掘るな!」


彼は怒鳴るように叫んだ。

健三の心臓は、突然鷲掴みにされたかのように脈打った。彼はコーヒーを地面に落とすのも構わず、駆け寄った。


「田端さん、これは...」


健三の声は震えていた。

バケットの先端には、泥にまみれた土器の破片が一つ、埋め込まれていた。それは、近代のものとは明らかに違う、古い時代の、焼き物のカケラだった。そして、その破片のすぐ隣には、木製の構造材らしきものが、粘土質の泥に覆われながらも、はっきりと形を保って横たわっていた。湿気を吸って黒ずんだその木材の表面には、まるで昨日刻まれたかのように、石斧で削られた痕が鮮明に残っていた。


田端は顔面蒼白になり、ヘルメットを脱いで頭を抱え込んだ。「嘘だろ...試掘で何も出なかったじゃないか...」

健三は、元建築士としての冷静な判断力と、一市民としての最悪の予感との間で揺れ動いていた。彼はしゃがみ込み、木材の感触を確かめるために指先で泥を払った。泥の下から現れたのは、朱色の漆だった。小さな、しかし鮮やかな朱の塗り。その瞬間、健三の頭の中に警報が鳴り響いた。


「田端さん、これはやばい。これは埋めてはいけない。すぐに工事を止めて、現状維持だ。」


増岡は元建築士としての職業倫理に基づき、震える手でスマートフォンを取り出し、八賀市教育委員会文化財課の番号をダイヤルした。彼は、この届け出が自分の人生を永遠に変える、取り返しのつかない判断になるとは、まだ知る由もなかった。彼はこの時点ではまだ、行政は彼のような真面目な市民を助けてくれるはずだと信じていた。


八賀市教育委員会から派遣されたのは、文化財課の課長と、県立博物館から来た一人の考古学者だった。現場はすぐに規制線が張られ、工事は完全に停止した。


考古学者は、穴を覗き込み、粘土質の地層と、その中から顔を出した木材を見た瞬間、興奮と緊張で顔を紅潮させた。


「これは...粘土のキャップだ。酸素が遮断されている。保存状態が尋常じゃない。弥生時代後期の、大規模な集落遺構の可能性が高い。この木材は、環濠集落の柵か、あるいは高床式倉庫の柱かもしれない。そして、この朱塗り...これは、極めて貴重な祭祀具の一部だ。八賀地区弥生遺跡(仮称)として、緊急に広範囲な調査が必要です。」


その言葉を聞いた瞬間、健三の全身から血の気が引いた。彼は腰を抜かし、崩れるように座り込んだ。彼の耳には、「緊急」「大規模」「数年」といった破滅的な言葉だけが、反響していた。そして、彼の置いた古いレコーダーは、その全ての会話を忠実に記録し続けていた。この地層は、単なる遺跡ではなく、健三の安寧な老後の夢を覆い尽くす、巨大な棺となったのである。


健三の視界の隅、現場から十メートルほど離れた場所には、八賀川の支流跡から続く湿地帯の名残が、細く緑を広げている。その湿地が、建物の沈下を防ぐために杭打ちを必須とし、同時に遺跡を奇跡的に保存した元凶だと、彼はまだ気づいていなかった。その湿地の水が、彼の人生の終着点へと流れ込む運命を象徴しているかのようだった。

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