第2話
果てしない絶望と虚無が襲ってくる。
歯を食いしばり、それに流されまいと抵抗するが、それはあまりにも強大で、やがてその奔流に飲まれていく。
叫び声を上げる事も叶わず、なすがままに流されていく。
その先に光が見えた――
目を開けると同時に、跳ね起きた男に、傍にいた女が少し驚いた表情で固まっていた。その手には湿った布と、細長い口のついたポットが握られている。
男がはたと気付いて自分を見下ろす。気を失う前まで来ていた服とは別のものを着せられて、付着していたはずの自分の血が、綺麗にふき取られていた。
男は、目を丸くしたまま固まっている女を再度見上げた。
首元で束ねられた、腰元まであるプラチナブロンドの髪に、青い瞳。華奢な体型を、質素ではあるが粗末ではないドレスで包み込んでいる。
その女を見た瞬間、男の脳裏をある光景が掠めていった。
静かな水面に、水が一滴落ちて波紋を作る
水が落ちた瞬間、水面には一瞬だけ花が咲く
――雫の花
「君は……」
自然と口からこぼれた言葉。
男は固まったままの女をしばらく見上げていた。同じように、固まったままで。
一瞬のような、永遠のような沈黙の時間が訪れて、それから女はふっと微笑(わら)った。
「おはよう――」
それは、今まで見たこともない光景だった。
窓から差し込む光に、プラチナブロンドの髪がキラキラと輝いて、そんな光に包まれたような彼女は優しい笑顔を見せた。今までみた、記憶にあるどんな光景よりも美しく思えた。
「……お、おはようございます」
心に浮かび上がったむせ返るような気持ちに、男は少しどもりながらも彼女の声に応えた。けれど、彼女の姿を直視することもできず、すぐに目線を自分の膝元に俯かせる。
「二年も眠ってたんですよ?」
そんな男の様子に、クスと微笑んだ女は、ポットと布を部屋の隅にある机に置くと、ベッドの傍においてある椅子に腰掛ける。
その所作を、横目でチラチラと見ては膝元に目線を戻し、やがてすぐ傍に彼女が座った気配を感じて、自然と背筋が伸びる。
「私は、レニ。あなたは?」
「僕は……クルス」
名乗りながら振り向くと、さっきと変わらない微笑を浮かべている彼女と目があって、クルスはすぐに目を逸らしてしまった。
「二年も寝ていたんですか?」
「はい」
視線があちらこちらを彷徨う。こちらをみているであろうレニに対して、本来失礼な事であろうけれど、クルスの胸中はそれどころではない。
最後の記憶は、オーツとキリエから逃げ出して、街を見つけたところで終わっている。それから、目を覚ましてみれば、美少女が微笑んでいた。
自分がいる場所を、目線だけをキョロキョロと彷徨わせて、ここがどこなのかの情報を探しつつ、心を落ち着けようとするクルスだったが、粗末なベッドに堅い毛布、同じく粗末な木材で出来た壁くらいしかない。
何も情報がない事に、内心落胆しつつも、心のほうはやや落ち着いてきたから、クルスは意を決してレニの方を振り向いた。
「あの――」
「アマルカ、なんですか?」
「へ?」
振り向くと、大きな青い瞳を興味津々といった風に輝かせたレニが、やや身を乗り出してきていた。
また目があって、クルスもまた大きく目を見開いてしまう。また、しばらく沈黙の時間が訪れて、二人はしばらく目線を外すこともできずに、そのまま見つめ合ってしまう。
「アマルカ……?」
まっすぐに見つめてくるレニの瞳は、本当に綺麗な青で、思わず見入ってしまうものがある。同時に頬の辺りが熱くなるのを感じたクルスは、どうにかこうにか言葉をひねり出した。
「アマルカです。あなたのような、黒髪黒瞳を持った人たちの事をそう言うと聞いています」
「アマルカ……」
ようやく目線を外すことのできたクルスは、顎に指を当てて目線を下に落とす。
黒髪黒瞳といえば、クルスも会っている。オーツとキリエだ。
彼らは自分の事をそう呼んでいただろうか?
記憶では、突然やってきて、襲われ、そしてキリエが現れて消えた。それから、命からがらクルスは逃げてきて力尽きた。その中で“アマルカ”という単語が出てきた記憶はない。
「違うんですか?」
「ごめんなさい、わかりません」
「そうですか……」
レニから落胆のため息が漏れる。そのため息に、クルスは少し慌ててしまう。
「あ、あの、僕はアマルカ、の方がよかったですか?」
「え?」
その言葉に一瞬呆けたようにクルスを見つめるレニ。
「ぷっ……あははっ!」
けれど次の瞬間、レニは思い切り良く吹き出してしまった。今度はクルスが、笑い出したレニを呆けたように見つめる。
「一人で何笑って……ん?」
笑い声を聞きつけたのか、そこに入ってきたレニと同じプラチナブロンドの髪の背の高い男は、腹を抱えて笑うレニとそれを見つめる男の姿にぎょっとしてしまう。
「あははっ…あー……あ、レオ! 彼起きたのよ、アマルカじゃないみたい!」
「ちょっ」
部屋の入り口でぎょっとして固まっている男――レオに、先ほどまで笑い転げていたレニが駆け寄って、その肩をバンバンと叩くと、再び笑い出した。
「レニ、やめろ」
笑ってはその肩を叩いて、叩いては笑ってを繰り返すレニに、レオは困惑したままでレニと、ベッドでこちらをぼんやり見ているクルスを何度も見比べた。
レニは時折、変な所で笑いのツボがあり、そこに入ってしまうと、しばらく笑いが止まらなくなるという。レニの笑いが納まって、ようやくレオとクルスが自己紹介を果たした際に、レオはそれを教えてくれた。
「にしても、あんたほんとにアマルカじゃないのか?」
クルスがベッドに、レニはベッド側の椅子に腰掛け、レオは部屋の隅にある椅子を背もたれを前にして行儀悪く座ってすぐ、レオはそう尋ねた。
「二年も眠ってたら、色々と衰えそうなものだが……」
そのままジロジロとクルスを観察した。細い、華奢とすら言える体型に、程よくついた筋肉。黒髪黒瞳はアマルカという伝聞を持って異様に映るが、どうにも人智を超えた恐ろしさを感じるような相手ではない。表情は穏やかであるし、その顔は同性のレオでも少しドキッとするような美形だった。
はた、とクルスもおかしな事に気付く。二年も寝ていたと目の前の二人がいうが、クルスとしては、「少し寝すぎた」くらいの感覚なのだ。体もほんの少しだるいくらいで、いたって普通。もし本当に二年も眠っていたのなら、起き上がることですら困難なはずなのに。
もう一つおかしな事、オーツから受けた傷が治っている事だ。二年もの間寝ていたのだから自然治癒しても不思議ではないのだが、二人の話によれば、ここに運び込んだときは既に外傷のほとんどは治癒していたという。
それをもってアマルカなのではないか、と二人は仮説を立てていたようだ。
「僕は、アマルカというものを知りません。気付いたらどこかの荒野で立ち尽くしていました」
それから、クルスは、自分の記憶にある風景と、最初に見た風景が一切合致しないこと、二人の言うアマルカと思しき人物に襲われて死に掛けたこと、命からがら逃げてこの街にたどり着いたところで意識を失った事を話した。
「んん? その、オーツ? キリエ? っていうのがアマルカで、あなたはそれに襲われた。けれど、知り合いのような雰囲気だった?」
頬に指を当てて首を傾げるレニ。
「それって、やっぱり、クルスさんもアマルカってこと?」
首を傾げてつぶやいたレニは、じっとクルスの黒い髪と瞳を見つめた。目が合って、瞬間クルスは下を向いてしまう。
「黒髪黒瞳が、アマルカの最大の特徴であるなら、おそらくオーツも、キリエさんも、僕もそうなのでしょう。それに、彼らは昔からの知り合いのように、僕に話しかけてきましたから、おそらくは……」
「離反ってとこか? 何らかの理由でクルスが離反して、オーツが追いかけている?」
それまで黙ってレニとクルスを見ていたレオが口を開く。
「何ともいえないです。でも、オーツは言ってました。殺すか殺されるかのゲームだ、と」
「ゲーム……」
レオは、ゲームという表現に、言葉を失ってしまっていた。同時に、クルスがアマルカであるという確信を得る。眷属に怯えて寄り添いあう人間は、ゲームでお互いを殺しあうなんてことはしない。そんな余興ができるのは、この荒廃した世界の支配者であるアマルカか、あるいは眷属であろう。
クルスを街の外で拾ってからこれまでの二年間、レオは出来る限りの情報を集めていた。アマルカと眷属の情報を。
大概はレオも知っているような情報ばかりだったが、外から流れてきた人間の話の中には、新しい情報もあった。
アマルカが直接支配する街があるらしい、ということや、眷属には何種類かあること。また、アマルカの数や、アマルカと思しき者同士の戦闘やその痕跡。アマルカや眷属が、戯れに撒き散らす毒や病気など、知らなかった事もいくつか出てきた。
その中でも、アマルカ同士の戦闘で、一番痕跡の新しいものがこの街近くにあるという話と、クルスを見つけたときの状況、そしてクルス自身の話から、彼がそうであると判断した。
だが――
「そんな怖い人からよく生きて逃げれましたよね!」
事態の深刻さ――クルスがアマルカであることなど、全く意にも介さず、レニは表情を目まぐるしく変えてクルスに話しかけている。
レニにとっては、彼がアマルカかどうかなんて、どうでもよかったのだろう。
レニは人の機微を敏感に感じ取って、強く共感し、同時にトラブルを円満に解決させる才能があった。自分では気付いていないが、それは周囲の人間も知っていることで、娼婦でありながら、そういった行為よりも、悩み相談や話をしにくる人間の方が多かった。レニ自身、時折、自分に魅力がないのではないかと悩むこともあったが、けれど、悩み相談を受け、晴れ晴れして帰っていく客の姿に満足もしていた。
そうやって、人の事ばかりで、自分の事などおくびにも出さない。幼い頃から、両親やレオに付き従い、両親が亡くなって、食い扶持を稼ぐためにと娼婦になってからも、どんなに大変な時でも、レニは自分の事をさておいて、レオや周囲の人間のためにと、その身をささげてきた。
そんな妹が、初めてわがままを言ったのが二年前だ。レオが運んできた厄介を、世話をするといって聞かなかった。
周囲の人間も、はっきりとアマルカと判断できないものの、伝え聞く容姿にそっくりだから、と意識の戻らないうちに遠い場所に置いてくるべきだとも言っていた。それでも、レニは頑として面倒を見るといってきかなかった。
そんなレニを周囲の人間も初めて見た、と口々に言う。結局、レオも周囲の人達もレニのわがままを受け入れて、この正体不明な男をここに置く事になったのだ。
レニがわがままをいった理由、その時はわからなかったが、今のレニを見ていれば何となくわかって、レオは口をつぐんでしまう。
とても言えなかった。彼は間違いなくアマルカで、危険だから街から出て行ってもらいたい、などとは。
レニが一生懸命話しかけて、クルスは時折振り向いてはすぐに目線を下に落としてその話に応える。そんな事が繰り返される光景を、レオは複雑な表情で見守るのであった。
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