第10話:デスマーチ、優秀な人間は道具に依存しない

 道具というのは、残酷なほどに誠実だ。

 使う人間を選ばず、差別もしない。

 金さえ積めば、英雄が振るう聖剣も、賢者が編んだローブも、ただの無能の手に渡ることを拒まない。


 道具は、沈黙を守る従僕である。

 持ち主の愚かさを指摘することなく、ただ設計通りの性能を発揮し、その結果として持ち主を破滅させることさえある。

 金の力で身分不相応な力を手に入れた者が、その力に振り回されて自滅する。

 それは、古今の物語で繰り返されてきた滑稽な喜劇であり、同時に、ダンジョンにおいてはありふれた悲劇でもある。


 そこに悪意はない。あるのは、冷徹な因果だけだ。


 ダンジョン深層。灼熱の空気が支配する赤竜の領域。

 そこを、五つの影が進んでいた。


 Bランクパーティ『銀の明星シルバースター』。

 彼らが纏うのは、王都の鍛冶職人が技の粋を凝らして作り上げた『火竜の装備』である。

 耐火性能はSランク。物理的防御力は鋼鉄を越える。

 その性能は、カタログスペック上においては完璧であり、究極だった。


 襲い来る火炎蜥蜴フレイムリザード

 口から放たれる火炎放射を、リーダーのアレンは回避すらしなかった。

 炎は赤き鎧の表面を滑り、熱を遮断された内部の肉体には届かない。

 アレンは無造作に剣を振り下ろし、魔物を両断した。


「見たか! 事務屋の予言なんて外れだ!」


 アレンは叫んだ。

 その声には、自身の正しさを証明できたという歓喜と、世界への万能感が滲んでいた。

 多少の被弾はあった。だが、後ろに控えたヒーラーが即座に回復魔法をかけ、傷は瞬く間に塞がる。


 暑さはどうだ。

 確かに暑い。

 だが、腰のポーチには大量の『即効性冷却剤』がある。喉が渇けば飲めばいい。飲めば一瞬で体温が下がり、視界がクリアになる。


 無敵だ。

 アレンたちはそう確信していた。

 金で買った最強の矛と盾。それさえあれば、攻略など作業に過ぎない。

 彼らにダンジョンはもはや命を懸けた冒険の場ではなく、名声を得るための舞台装置に成り下がっていた。


 彼らは進む。

 その一歩一歩が、自らを蒸し焼きにするための調理工程であることにも気づかずに。


---


 ギルドの会議室。


 ミーティングテーブルに広げたダンジョンの詳細地図の上に、赤い駒を一つ置く。


「……現在、深層突入の予定時刻から、2時間が経過」


 時計を見る。秒針が規則正しく、無機質に時を刻んでいる。

 俺の正面には、ルティアが不安そうな顔で座っていた。


「カツラギさん……アレンさんたち、大丈夫でしょうか」

「装備のスペックだけ見れば、この辺りの魔物に遅れを取る要素はありませんよ。ここまでは順調でしょう」


 俺は淡々と事実を述べた。

 今回のクエストにおいて、変数は少ない。

 彼らの行動パターン、装備の性能、ダンジョンの環境。すべて予測計算可能な数値だ。


「ですが、順調なら、そろそろ第一段階の『熱』が牙を剥く頃です」


 俺は地図上の、深層エリアの中腹を指差した。


「このエリアは地熱が高く、外気温は60℃以上ありますが、彼らが身に付けている『火竜の装備』は、外部からの熱を完璧に遮断します。それはつまり、内部の熱も絶対に逃さないということです」


 魔法瓶の中に熱源を入れて、蓋をして、外から温める。

 中の熱源が激しく運動すればどうなるか。

 答えは明白だ。


 オルガからの連絡を受信するための魔石を見る。

 まだ何の反応もない。


 聞くところによると、ダンジョン内部を循環する魔力は、外界とは異なる特殊な性質を持っているらしい。その高密度な魔力場が『搬送波キャリア』のような役割を果たすことで、通常なら莫大なエネルギーを要する『空間転移』や『遠隔通信』が、比較的容易に行えるのだという。

 つまり、ダンジョン全体が、魔力による巨大な『構内ネットワーク』で構築されているようなものだ。

 この通信石も、そのネットワークに接続された『端末クライアント』の一つに過ぎないのだろう。


 ダンジョンマスター討伐という高難度クエストということもあり、出発前、オルガは『銀の明星シルバースター』の一人に、緊急時に救難信号を出せる魔石を持たせていた。

 リーダーのアレンは「不要だ」と拒絶したが、万が一のための保険として、仲間の男にねじ込んだのだ。


 そう、彼らの後方には、ギルド長オルガ率いる救助隊が、隠密に追尾している。

 『銀の明星シルバースター』が全滅する前に介入するための、最後のセーフティネットだ。


「待ちましょう。結果が出るのは、そう遠くありません」


 俺は冷めたコーヒーを一口飲んだ。

 苦味が、口の中に広がった。


---


 異変は、静かに、しかし確実に彼らを蝕んでいた。

 世界は物理法則に支配されており、そこには慈悲も忖度もないからだ。


 一つ目の異変、排熱不全。


 アレンは額の汗を拭った。

 拭っても拭っても、汗が止まらない。全身が粘りつくような不快感に包まれている。

 鎧の中は、既に湿度100%の蒸し風呂だった。

 皮膚呼吸が阻害され、体温が下がらない。


「……くそ、暑い……」


 意識がぼんやりとする。

 目の前の敵との距離感が、微妙に狂い始めていた。

 本来なら避けられる大振りの攻撃を、反応できずに鎧で受ける回数が増えていく。


 彼らを守るはずの『最強の鎧』は、今や彼らを閉じ込め、熱でなぶり殺しにするための『鋼鉄の棺桶』へと変貌していた。

 外からの熱は防ぐ。だが、内側で生まれた熱は、どこにも行けない。

 彼らは自分の体温という業火に焼かれ始めていた。


 仲間の魔法使いも同様だ。

 彼は当初、冷却魔法を自分たちにかけていた。だが、火竜の装備の断熱性が高すぎて、魔法の効果が内部まで浸透しない。

 結果、魔力ばかりを浪費し、肝心のボス戦のために温存せざるを得なくなっていた。


 二つ目の異変、誘引。


 アレンは腰の冷却剤を抜き、一気に煽った。

 甘ったるい液体が喉を通り、一時的に体温を下げる。

 だが、その強烈な甘い匂いは、吐息と共に空気中に拡散される。


 即効性冷却剤に含まれる過剰な糖。

 それは魔物にとって、極上の蜜の香りだ。

 暗いダンジョンの底で、飢えた捕食者たちを晩餐会へと招待する、これ以上ない合図。


「……おい、アレン」


 斥候担当の男が、震える声で言った。


「いつもより、敵の寄りが早いぞ……」


 暗闇の奥から、無数の赤い目が光っていた。

 通常なら遭遇しないはずの数の魔物が、甘い香りに誘われて集まってくる。

 休む暇がない。

 休めないから、体温が下がらない。

 体温が下がらないから、冷却剤を飲む。

 飲めば飲むほど、匂いが強くなり、さらなる敵が集まる。


 それは、完璧に組み上げられた、破滅へのループだった。

 逃げ場はない。彼らは自らの手で、退路を塞いでいたのだから。


---


 ダンジョン最深部。

 巨大なドーム状の空間。

 床も壁も、高熱で溶解した岩がガラス状に固まり、不気味な光沢を放っている。

 その中央に、絶望が鎮座していた。


 赤竜レッドドラゴン

 このダンジョンの主。

 人など足元にも及ばぬ巨躯は、それ自体が圧倒的な暴力だ。

 吐き出す息は白煙となり、周囲の空気を歪ませる。

 それは、ただそこに在るだけで、弱者を圧死させるほどの存在感を放っていた。


 対するアレンたちは、既に満身創痍だった。

 外傷は殆どない。治癒魔法ヒールで無理やり塞いでいるからだ。

 だが、その代償として、体力と魔力は枯渇寸前であり、顔色は死人のように土気色だった。

 呼吸は浅く、速い。

 誰の目にも、勝敗は明らかだった。


 だが、彼らは止まらない。

 ここまで積み上げたコスト、プライド、そして『自分たちは特別だ』という妄信が、彼らの足を前へと動かしていた。

 引き返す勇気を持たぬ者は、破滅へと進むしかないのだ。


「……行くぞ。短期決戦だ」


 アレンの声は掠れ、乾いていた。

 それでも、彼らは突撃した。引くことなど、プライドが許さなかったからだ。

 それは勇気ある挑戦ではなく、ただの自殺行為だった。


 赤竜が、顎門あぎとを開く。

 咆哮と共に、灼熱のブレスが吐き出された。


 轟音と熱波。

 火竜の重鎧は、そのカタログスペック通りに炎を防いだ。直撃しても、アレンの体は燃え尽きない。

 だが、物理法則は彼らに味方しない。

 炎を防いだとしても、その衝撃と、防ぎきれない輻射熱は、確実に彼らの体力を削り取っていく。


 暑い。

 熱い。

 内側から焼かれるようだ。


 アレンは焦燥に駆られ、十本目となる冷却剤の封を切った。

 一気に流し込む。

 甘ったるい液体が、焼け付いた喉を通り過ぎる。


 その瞬間だった。

 世界が反転した。


 三つ目の異変、中毒。


 ガシャン。

 アレンの手から剣が落ちた。


「な……」


 足に力が入らない。

 膝が笑うどころではない。感覚そのものが消失しそうになった。

 指先から冷たい痺れが広がり、視界がぐにゃりと歪む。


 胃袋が痙攣した。

 短時間に大量摂取された薬剤を、限界を迎えた内臓が処理しきれず、拒絶反応を起こしたのだ。

 冷却効果? いや、今の彼にとって、それはただの劇薬だった。


 アレンはその場に膝を突いた。

 仲間たちも同様だ。一人、また一人と崩れていく。


 目の前には、悠然と歩み寄る赤竜。

 その巨大な爪が、無慈悲に振り上げられる。


「嘘だろ……俺たちは、最高の装備を……」


 アレンの脳裏に、あの事務屋の冷徹な声がよぎった。


 ――リスクが高すぎます。

 ――救助が必要になった場合、費用は通常の十倍とします。


「くそっ……!」


 アレンは渾身の力を振り絞る。

 プライドも、金も、装備も、全てを捨てる選択。


「……逃げろッ!!」


 叫びと、赤竜の爪が振り下ろされるのは、ほぼ同時だった。


 轟音。

 赤竜の爪が、アレンを押しつぶす寸前で止まった。

 いや、止められたのだ。


 巨大な戦斧が、それを受け止めていた。

 赤髪の女戦士――オルガマリナ。

 彼女はそのまま切り返し、赤竜の巨体を弾き飛ばす。


「救助隊、回収だ! アタシはこいつと遊んでから行く!」


---


 待機していた救助隊の冒険者たちは、手際よくアレンたちを担ぎ上げ、安全地帯へと走る。


 何故、このタイミングで救助が来たのか。

 理由は単純だ。

 仲間の男が、赤竜を目にした瞬間に心が折れ、リーダーに隠れて密かに『救難信号』を発していたからだ。


 もっとも、信号など無くとも、オルガなら介入していたかもしれない。彼女は最悪の事態をただ座して待つほど、無能でも冷酷でもないからだ。


 だが、現実は皮肉な結末を示した。

 彼らの命を繋いだのは、リーダーの『勇気』ではなく、仲間の『恐怖』だったのだ。

 アレン以外の人間が下した判断こそが正解だった。それが、このパーティの限界であり、真実だった。


 最深部入口手前のフロアには、すでに魔法陣が描かれている。

 救助隊に同行していた腕利きの魔導師が、待機中に構築していたものだ。


 『簡易転移陣リターンゲート』。一方通行ではあるが、ホールの魔法陣に転移するための一時的なポータルである。

 ポータルが無い場所で探索を切り上げたい時や、今回のような緊急救助の際に使われる、冒険者たちの命綱だ。


「展開完了! 急げ!」


 魔法陣が光を放ち、空間に穴を穿つ。

 担ぎ込まれるアレンは、薄れゆく意識の中で、圧倒的な強さで赤竜と渡り合うオルガの姿を見た。


 そして理解した。

 自分たちが頼っていた『最強の装備』など、本物の強者の前では、ただの飾りに過ぎなかったのだと。

 実力なき者が纏う鎧は、身を守る殻ではなく、その身を蒸し焼きにする棺桶でしかなかったのだ。


---


 ギルドの会議室。


 ミーティングテーブルの上に置かれた通信用の魔石が、赤く明滅した。

 これは、救助完了の合図だ。


「……カツラギさん」


 隣で祈るように魔石を見つめていたルティアが、震える声で俺を呼んだ。


「ああ。救助成功です。……間に合いましたね」

「はい! ……よかったぁ……!」


 ルティアは全身の力が抜けたように、深く息を吐き出した。震えが止まらない手を胸の前で握りしめ、祈るように目を閉じる。

 その様子を見て、俺も張り詰めていた糸が切れるのを感じた。


「ええ、本当によかった。……死ななくて、本当によかった」


 俺の口から出たのは、皮肉でも計算でもない、ただの本音だ。

 どれだけ愚かでも、どれだけ憎らしくても、人が死ぬのは寝覚めが悪い。

 生きていてくれさえすれば、やり直しはきくのだからな。


 深く息を吐き、天井を仰ぐ。

 元の世界で聞いた、あるシステム開発の笑えない話を思い出した。


 コスト削減のためにベテラン技術者を解雇し、警告を無視して欠陥だらけのシステムをリリースした企業の末路。

 結局、彼らはシステムダウンによる損害賠償と、緊急対応のコンサルティング料として、当初の予算の何倍もの金を支払う羽目になった。


 『安全』と『専門家』を軽んじた代償は、いつだって高くつく。

 それは、どこの世界でも変わらない真理らしい。


「……救助隊が戻ってきたら、業務開始です」


 俺は表情を引き締め直し、いつもの事務屋の顔に戻る。

 手元の画板には、彼らがサインした『特別免責同意書』が挟まれている。そこには、通常の十倍の救助費用を請求する旨が、明確に記されていた。


 高い授業料になったな、アレン。

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