第3話 止まった社会、止まれなかった心

 走ったのは、たった10分かそこらだったと思う。

革靴で、ネクタイを締めたままの奇妙なランニングだったけど、夜は不思議なくらい、深く眠れた。 

———

 翌朝——目が覚めて、体を起こそうとした瞬間、天井がグラグラ揺れて、目の前がぐにゃりと歪んだ。

「あ、倒れる」

そう思った次の瞬間には、意識が途切れていた。

———

 気がつくと、床の上だった。

スマホがそばに落ちていた。

なんとか上体だけを起こして画面を見ると、

LINEが数件、上司からの未読メール、

そして一通だけ、部下の伊藤陽介からのメッセージ。

「森山さん、今日どうしたんですか?

大丈夫ですか? 無理しないでくださいね」

胸が詰まった。

陽介には、このコロナ禍に何度も理不尽な業務を押しつけてきた。心配されるような資格なんて、自分にあるだろうか。

 念の為、かかりつけの病院に行くと、静まりかえっていた。緊急事態宣言の中、患者も少なく、看護師もマスクの奥で言葉少なげだった。

 検査のあと、医者が言った。

「コロナではありません。熱がないので」

と、完全防備のマスクの医者は淡々と説明を続けた。

「森山さん、最近仕事がきついんですか?」

「血圧の数値がいつもより随分高くなっています。これ以上無理を続けると、高血圧の合併症になるかもしれません」

私は黙ってうなずいた。

高い血圧、疲れ切った心、目の前に広がる空虚な日常——

どうしても止まれなかった自分が、今ここでようやく崩れたような気がした。

 社会が止まっていた。

会社も、得意先も、営業も、何もかもが止まっていた。でも自分だけは止まってはいけないと、勝手に思い込んでいた。そんな幻想が、今になって、音を立てて崩れ始めた。

 このとき初めて、昨日走ったことが、ただの"逃げ"じゃない気がしてきた。

心をどこかに置きにいく行為だったのかもしれない。いつ以来だろう、あんなに全速力で走ったのは……。

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