第7話:くちびるの熱と、歪む笑顔
視点:天野 奏多
昨夜のことは、夢じゃなかった。
朝、目が覚めて最初に意識したのは、自分の唇だった。指先でそっと触れると、そこにはまだ、昨夜の結城暁人の体温が残っているような気がした。
『奏多。……俺の、たった一人の星』
耳の奥にこびりついて離れない、彼の低く、甘い声。そして、触れるだけの、けれど魂まで焦がすようなキス。
ベッドの上で、俺は顔を枕に押し付け、足をバタつかせた。
「な、なんなの……あれ……」
心臓が、朝から全力疾走した後のようにドクンドクンと脈打っている。鏡を見ると、顔が茹でダコのように真っ赤だった。
今まで、結城くんは”怖い護衛”だった。異様な執着心と、有無を言わせない命令口調。俺はそれに怯えながらも、なぜか彼から離れられない自分を感じていた。
でも、昨日のあれは違う。あれは、護衛じゃない。あれは、”男の人”の顔だった。
これまで誰に対しても感じたことのない、胸の奥がキュンと締め付けられるような感覚。これが「恋」なのか、それとも彼が言う「運命」なのか、俺にはまだ名前をつけることができない。
ただ一つ確かなのは、俺の中で、結城暁人という存在が、もう”他人”の枠には収まりきらなくなっているということだ。
俺は深呼吸をして、制服に着替えた。星型のキーホルダーをリュックにつける時、指が震えた。
(今日、どんな顔をして会えばいいんだろう。)
不安と、それを上回る期待を胸に、俺は玄関のドアを開けた。
「――おはよう、奏多」
ドアを開けた瞬間、そこに彼がいた。
いつものように、俺の家の前で待っていた結城くん。でも、その雰囲気は昨日までとは決定的に違っていた。
これまでの彼が、周囲を威圧する”鋭利な刃物”だとしたら、今の彼は、その刃を鞘に収め、ただ静かに、けれど熱っぽく俺だけを見つめる”守り人”だった。
「お、おはよう……結城くん」
俺が俯きがちに挨拶すると、彼は一歩近づいてきた。昨日のキスを思い出して、俺の肩がビクリと跳ねる。
「よく眠れたか?」
「う、うん。まあ……」
嘘だ。心臓がうるさすぎて、何度も目が覚めた。
結城くんは、俺のリュックの星のキーホルダーに視線を落とし、満足そうに小さく微笑んだ。その笑顔が、あまりにも綺麗で、俺は思わず見惚れてしまった。
「今日から、新しいルールだと言ったな」
「え……う、うん」
彼は、俺の返事を待たずに、俺の右手をそっと取った。そして、自分の左手と絡ませる。
恋人繋ぎ。
「えっ!? ゆ、結城くん、これ……!」
「学校へ行くまでは、こうしていく。俺の手を離すな」
命令口調は変わらない。でも、その声には、以前のような冷たさは微塵もなかった。あるのは、溺れるほどの甘さと、絶対に逃さないという強い意志。
俺の手のひらに、彼の体温がじんわりと伝わってくる。その熱が、俺の腕を伝って、心臓へと直接流れ込んでくるようだ。
「……うん」
俺は、小さく頷いて、彼の手を握り返した。
恥ずかしい。でも、それ以上に、嬉しいと思ってしまった。
彼と繋がっているこの右手が、まるで自分の身体の一部として、やっと正しい場所に収まったような安心感があったからだ。
二人は手を繋いだまま、朝の通学路を歩き出した。すれ違う生徒たちが、ギョッとして俺たちを見ているのが分かる。学校一のイケメンでクールな結城暁人が、平凡な男子生徒と恋人繋ぎをして歩いているのだ。噂にならないわけがない。
でも、不思議と怖くなかった。彼の手の温もりが、俺の周りに見えないバリアを張ってくれているようで、外野の視線などどうでもよくなっていた。
学校に着き、校門の手前で手を離した。名残惜しいと感じた自分に驚く。
教室に入ると、結城くんは俺の席の隣に座った。以前のように机をくっつけることはしなかったが、その距離は昨日よりも精神的にずっと近い。
授業中、ふと視線を感じて横を見ると、必ず結城くんと目が合う。彼は授業を聞いているフリをして、ずっと俺を見ていたのだ。
目が合うと、彼はふっと目を細める。まるで、大事な宝物を愛でるような眼差し。そのたびに、俺の心臓は跳ね上がり、教科書の内容なんて頭に入らなくなってしまう。
(ずるいよ、そんな顔。)
俺は赤くなる顔を隠すように、ノートに視線を落とす。でも、意識はずっと隣にある。
彼の呼吸、ペンを走らせる音、たまに俺の方へ向く気配。そのすべてが、今の俺の世界の中心だった。
彼と一緒にいると、俺の心の奥底にあった”何か足りない”という空虚な穴が、温かいもので埋められていく感覚がある。
彼が言う”過去の記憶”や”魂”の話は、俺にはまだよく分からない。でも、彼が俺”半身”であるという感覚だけは、理屈を超えて理解でき始めていた。
昼休み。
「天野、屋上へ行くぞ」
チャイムが鳴ると同時に、結城くんが立ち上がった。
「え、屋上?」
「教室は騒がしい。二人で静かに過ごしたい」
その言葉に、クラス中の視線が集まる。『二人で』という言葉の響きに、隠そうともしない独占欲が滲んでいる。
俺が頷いて立ち上がろうとした時だった。
「やあ、天野くん。ちょっといいかな?」
明るく、それでいてどこか粘り気のある声が、俺たち二人の間に割って入った。
藤堂隼人くんだ。彼はいつもの爽やかな笑顔を浮かべているが、その瞳の奥は笑っていなかった。
彼の視線は、俺ではなく、俺の横に立つ結城くんに向けられている。
「結城、悪いけど今日は天野くんを借りたいんだ。委員会の方で、彼に手伝ってほしいことがあってね」
それは明らかな嘘だった。俺は委員会には入っていない。
結城くんの空気が、一瞬にして凍りついた。朝から纏っていた穏やかな春のような空気が消え失せ、あの鋭利な刃物のような殺気が蘇る。
「断る。天野は俺と先約がある」
結城くんの声は、地を這うように低かった。
「先約って、ただのお昼ご飯だろう? 委員会の仕事の方が優先されるべきじゃないかな。ねえ、天野くん」
藤堂くんは、結城くんを無視して、俺の方へ顔を向けた。その笑顔は完璧だが、俺の腕に伸びてきた彼の手は、有無を言わせない強さを持っていた。
「行こう、天野くん。結城と一緒にいても、息が詰まるだけだろう?」
彼の手が、俺の左腕に触れた瞬間。
…ゾクリ。
背筋に冷たい悪寒が走った。
それは、生理的な嫌悪感というよりも、もっと根源的な、魂が拒絶するような感覚だった。彼の指先から伝わる冷たい何かが、俺の中の大切なものを汚そうとしている――そんな本能的な恐怖。
「っ……!」
俺は、反射的に藤堂くんの手を振り払っていた。
「え……」
藤堂くんの目が、驚きで見開かれる。俺自身も驚いた。
普段、人に強く出ることなんてできない俺が、こんなにはっきりと拒絶を示すなんて。
「ご、ごめん、藤堂くん。俺……今日は、結城くんと一緒がいい」
俺は震える声で、けれどはっきりと告げた。
それは、結城くんへの義理立てじゃない。俺自身の心が、身体が、”結城暁人のそばにいたい”と叫んでいたからだ。
藤堂くんの笑顔が、ゆっくりと崩れていった。その整った顔が、見たこともないほど歪み、どす黒い感情が露わになる。
「……一緒がいい、か」
彼は低く呟いた。その声には、明確な嫉妬と憎悪が混じっていた。
「あんな、君を縛り付けるだけの男がいいのか? 君は騙されているんだよ、天野くん。そいつは、君を愛しているんじゃない。ただの所有物として見ているだけだ」
「違う!」
俺は叫んだ。
「結城くんは、俺を縛り付けてるんじゃない。俺を守ってくれてるんだ。俺は……俺は、結城くんが隣にいてくれると、安心するんだ!」
俺の言葉を聞いた瞬間、隣にいた結城くんが、息を呑む気配がした。
藤堂くんは、信じられないものを見るような目で俺を見た後、ふっと冷笑を浮かべた。
「そうか。君も、そっち側に落ちたんだね。……哀れだなあ」
意味深な言葉を残し、藤堂くんは踵を返して教室を出て行った。去り際、彼が俺に向けた視線は、もはや友人に向けるものではなく、手に入らない獲物を見る、執着に満ちた獣のそれだった。
教室の空気が張り詰める中、結城くんが俺の肩を抱き寄せた。
「……行くぞ、奏多」
彼の声は少し震えていた。俺たちは逃げるように、教室を後にした。
屋上への階段を登りきり、重い鉄扉を開けると、そこには青い空が広がっていた。風が少し冷たいけれど、教室の澱んだ空気よりはずっと心地よい。
フェンス際のベンチに並んで座る。結城くんは、屋上に来てからもずっと無言だった。
「あの……結城くん?」
俺がおずおずと声をかけると、彼は深く息を吐き、俺の方を向いた。
「すまない。不快な思いをさせた」
「ううん、違うよ。俺こそ、藤堂くんにあんな態度とっちゃって……」
「いや、お前のあの行動は、正しかった」
結城くんは、真剣な眼差しで俺を見つめた。
「奴に触れさせてはいけない。お前の直感は正しい。奴は、お前を害する存在だ」
「害する……?」
「今はまだ、分からなくていい。ただ、俺のそばにいろ」
彼はそう言って、俺の手をぎゅっと握りしめた。その手は、先ほどよりもずっと強く、そして切実だった。
「それより……さっきの言葉、本当か?」
「え?」
「俺が隣にいると、安心するというのは」
結城くんは、少し照れたように視線を逸らした。あの完璧超人の結城暁人が、耳まで赤くして照れている。そのギャップに、俺の胸はまた大きく高鳴った。
「う、うん。本当だよ」
俺は正直な気持ちを言葉にする。
「最初は怖かったけど……今は、結城くんがいないと、なんだか不安になるんだ。結城くんの手は温かいし、その目を見ると、自分が一人じゃないって思えるから」
俺の言葉を聞き終わると、結城くんはまるで泣きそうな、けれどこの上なく幸せそうな表情をした。
「……そうか」
彼は、俺の手を引き寄せ、その甲にキスを落とした。
「っ!」
「俺もだ、奏多。お前が隣にいない世界など、俺にはもう考えられない」
唇の感触が、手の甲から全身へと広がる。彼の愛は重い。でも、その重さが、今の俺には心地よかった。
まるで、ずっと漂っていた宇宙空間で、やっと引力のある星に着陸したような安堵感。
(ああ、俺……本当に、この人のことが好きなのかもしれない。)
俺は、彼の肩に頭を預けた。
「結城くん」
「なんだ」
「……お腹すいた」
俺の間の抜けた言葉に、結城くんは一瞬きょとんとして、それから声を上げて笑った。彼がこんなふうに声を上げて笑うのを、初めて見た。
「そうだな。飯にしよう」
彼は購買で買ったパンを取り出し、袋を開けて俺に手渡してくれた。
青空の下、二人で並んでパンを食べる。ただそれだけの時間が、かけがえのないものに感じられた。
しかし、俺たちはまだ知らなかった。
俺たちの距離が縮まれば縮まるほど、あの教室の影で、藤堂隼人の嫉妬心が、どす黒く熟成されていることを。
『手に入らないなら、壊してしまえばいい』
遠い昔、城を炎に包んだあの狂気が、再びこの平穏な日常に、音もなく忍び寄っていた。
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