DoubleDoor 税関犯罪
霧島猫
第1話
サウス・ペニンシュラ国際空港の到着ロビーは、夜明け前の独特な静寂と、人工的な冷気に支配されていた。巨大なガラスウォール越しに見える滑走路には、誘導灯の青い光が点々と連なり、漆黒の海へと溶け込んでいる。鋼鉄の骨組みと幾何学的なデザインで統一されたターミナルビルは、この半島国が過去半世紀で成し遂げた急速な経済成長の象徴であり、国民の誇りそのものだった。
磨き上げられた大理石の床は、旅行者たちの靴音を鋭く反射し、天井の高いホールには空調の低い唸り音が絶え間なく響いている。しかし、その洗練された建築の表層の下には、決して拭い去ることのできない歴史の澱が沈殿していた。かつての宗主国である瑞穂国に対する、複雑に屈折したナショナリズム。
それは、この国の法執行機関という巨大なシステムの血管に、ウィルスのように潜伏している。特定の職員たちにとって、瑞穂国籍の人間に対する不正義は、罪ではなく、ある種の「歴史的清算」であり、歪んだ愛国心によって正当化される公務の延長線上にあった。
税関検査場の真上に位置する監視室。マジックミラーと無数のモニターに囲まれたその薄暗い部屋で、ヤンはマグカップから立ち上る湯気を無表情に見つめていた。室内に充満する安っぽいコーヒーの香りと、電子機器が発する微かな熱気が、彼の肌にまとわりつく。
四十代後半のヤンは、税関管理官としてのキャリアのほとんどを、この空港の「裏側」の構築に捧げてきた。モニターの冷たい青白い光が、彼の顔に刻まれた深いシワと、慢性的な睡眠不足による目の下のクマを浮き彫りにしている。彼の手元にあるのは紙のファイルではなく、事前旅客情報システム(APIS)が表示されたタブレット端末だった。彼の指先が画面を滑るたびに、何百人もの人生がデータとして処理されていく。
ヤンの視線は、Cレーンのモニター映像に固定されていた。そこには、瑞穂国からの深夜便で到着したばかりの乗客たちが、疲労の色を滲ませながら列を作っている。彼の瞳は、獲物を選別する猛禽類のように鋭く、しかし感情を排した無機質な光を宿していた。彼はただの悪党ではない。彼は自分を、国家という家の玄関を守る番犬であり、同時にその家計を潤すための収徴官だと定義している。
「ジョージ・カルベ。四十二歳。瑞穂国籍。中規模貿易商社の極東担当部長」
ヤンは誰に聞かせるでもなく、画面上のデータを読み上げた。低い声は、換気扇の音に紛れて消えた。
「今回が二度目の入国。前回は観光、今回は商用。ペニンシュラ語の能力は皆無に近い。……クレジットカードの信用枠はプラチナだが、政治的なコネクションの形跡はなし。完璧だ」
ヤンが求めているのは、金を持っていて、かつ「叫んでも誰にも声が届かない」人間だ。社会的地位が高すぎる人間は外交問題になる。逆に金のない人間からは搾り取れない。ジョージ・カルベは、その狭間にある黄金のポケットにすっぽりと収まっていた。ヤンは手元の操作パネルに指を走らせ、Cレーンの担当官のイヤホンに、特定の周波数のノイズを送った。それは、長年の共犯関係にある者だけが理解できる、狩りの開始を告げる合図だった。
その頃、到着ロビーのターンテーブルから吐き出されたキャリーケースを手に、ジョージ・カルベは税関検査の列に並んでいた。長時間のフライトによる気圧の変化で耳の奥が詰まり、関節の節々が軋むように痛む。彼は首を回し、凝り固まった筋肉をほぐそうとしたが、疲労感は鉛のように重くのしかかっていた。
それでも、彼は背筋を伸ばし、仕立ての良いスーツの襟元を正した。今回の商談は、彼のキャリアだけでなく、家族の未来がかかっている。妻の治療費、そして来年大学に進学する娘の学費。それらを稼ぎ出すためには、この新興市場での成功が不可欠だった。
ジョージの視界の端に、税関職員たちの姿が映る。彼らは皆、厳格な表情で旅行者たちの荷物に視線を走らせていた。ジョージは善良な市民として生きてきた自負がある。申告すべきものは何もない。あるのは、現地の取引先への手土産である菓子折りと、着替え、そしてビジネス資料だけだ。列が少しずつ進み、彼の番が近づいてくる。前の旅行者が無造作に通過を許可されるのを見て、ジョージは無意識に安堵のため息をついた。
「次の方」
抑揚のない、しかし威圧感を含んだ声がかかる。ジョージはパスポートと税関申告書を手に、指定されたブースへと進んだ。そこに立っていたのは、キムという名の職員だった。三十代前半とおぼしきその男は、鍛え上げられた肉体を制服に押し込み、アンダーシャツの首元からはじっとりとした汗が滲んでいた。キムの瞳には、職務への忠実さとは異なる、どこか飢えたような光が宿っている。それは、弱者を見つけたときの捕食者の目つきに似ていた。
キムはジョージからパスポートを受け取ると、わざとらしいほど時間をかけてページをめくった。瑞穂国のパスポート。その表紙に刻まれた紋章を見た瞬間、キムの眉間ごくわずかに皺が寄り、唇の端が歪んだ。彼は幼い頃から、祖父に瑞穂国への恨みを聞かされて育った。目の前の男が、どんなに善良そうに見えようとも、キムにとっては「過去の侵略者」の末裔に過ぎない。むしろ、その涼しい顔つきが無性に癇に障った。
「目的は?」
キムは片言の英語で尋ねた。その視線はジョージの顔ではなく、彼の背後にある何もない空間に向けられている。
「ビジネスです。商談のために」
ジョージは愛想よく答えようとしたが、キムはそれを遮るように顎で検査台をしゃくった。
「ケースを上げろ。開けろ」
その口調は、公務員のそれではなく、囚人に対する看守のようだった。ジョージは一瞬戸惑ったが、異国の地でのトラブルを避けるため、素直に従った。重いキャリーケースを持ち上げ、ステンレスの検査台に乗せる。カチリ、というロックの外れる音が、静まり返った検査場に不自然なほど大きく響いた。
ジョージがケースを開くと、キムは無言でゴム手袋をはめた。その「パチン」というゴムの弾ける音が、これから始まる儀式の開始音だった。キムは乱雑な手つきで、きれいに畳まれたシャツや下着をかき回し始めた。ジョージの眉が不快感で動く。私的な領域を土足で踏み荒らされるような感覚。しかし、彼は唇を噛んで耐えた。
その時だ。
キムの動きが変わった。彼はケースの奥底、裏地のファスナー付近を探っていた右手を、一度自分の腰のベルトポーチ付近に戻したように見えた。それは瞬きするほどの短い時間であり、疲労したジョージの動体視力では捉えきれない速さだった。ヤンが監視室のカメラアングルを巧妙に調整し、ちょうど死角となるように設計されたその位置で、キムの手のひらに隠されていた「異物」が、ジョージの荷物の中へと滑り落ちる。
まるで手品師のような鮮やかさだった。しかし、そこには観客を楽しませる華やかさはなく、あるのは陰湿な悪意だけだ。キムは再びケースの中に手を突っ込み、今度は大げさな動作で「それ」を掴み出した。
透明なビニール袋に入った、少量の白い粉末。それは過去の別の摘発で押収され、証拠保管庫からヤンが横流しした使い古しの「小道具」だった。
キムはそれを天井の照明にかざし、ドラマチックなほど驚いた表情を作ってみせた。
「おい、これは何だ?」
キムの声が一段高く張り上げられ、周囲の空気振動が変わる。隣のレーンの職員たちも、まるで台本通りに一斉に動きを止めてこちらを見た。
ジョージは呆然と、目の前に突きつけられた白い粉を見つめた。理解が追いつかない。自分の荷物の中に、あんなものが入っているはずがない。
「え……? いや、私は知らない。それは私のものではない!」
ジョージは瑞穂語で叫んだ。脳内が真っ白になり、心臓が早鐘を打ち始める。冷や汗が一気に背中を伝う。
「知らない? 貴様のバッグから出てきたんだぞ! 麻薬だ! 密輸の現行犯だ!」
キムはペニンシュラ語で怒鳴り散らしながら、ジョージの胸倉を掴むような勢いで詰め寄った。言葉の意味は分からなくとも、その敵意と「Drug」という単語だけは明確に伝わった。
「違う! 信じてくれ! 誰かが入れたんだ!」
ジョージは必死に英語で弁明しようとするが、喉が渇ききって声が裏返る。キムは聞く耳を持たない。彼は腰の無線機を掴み、大声で応援を要請した。その目には、歪んだ優越感と、これから始まる「ショー」への期待が滲んでいた。
「静かにしろ! 抵抗するな!」
即座に現れた警備員たちが、ジョージの両脇を固めた。彼らの手は万力のように強く、ジョージの二の腕に食い込む。ジョージは反射的にポケットからスマートフォンを取り出し、大使館か会社の現地スタッフに連絡を取ろうとした。
「携帯を出せ!」
キムが素早くジョージの手首を捻り上げ、スマートフォンをもぎ取った。画面が暗転し、ジョージと世界を繋ぐ唯一の糸が断ち切られた。
「証拠品だ。没収する」
キムは無慈悲に告げ、スマートフォンを証拠品袋へと放り込んだ。ジッパーが閉まる音が、ジョージにとっての社会的な死刑宣告のように聞こえた。
周囲の旅行者たちが、遠巻きに好奇と軽蔑の混じった視線を向けてくる。ジョージは自分が犯罪者として見られていることに気づき、羞恥と恐怖で足が震え出した。彼は無実だ。神に誓って無実だ。しかし、この場を支配しているのは神ではなく、ヤンとキム、そして彼らが作り上げた完璧な悪意のシステムだった。
「連れて行け」
キムの短い命令とともに、ジョージは足を引きずられるようにして、税関の奥にある無機質な鉄扉の向こうへと連行されていった。その扉の先には、法の適正な手続きなど存在しない、密室の恐怖が待ち受けている。ジョージの視界から、明るい到着ロビーの光が遠ざかり、重い金属音がして扉が閉ざされた。
監視室のモニター越しにその一部始終を見ていたヤンは、ゆっくりとマグカップを口に運んだ。ぬるくなったコーヒーは泥のような味がしたが、今の彼には極上の美酒のように感じられた。彼は手元のリストにあるジョージの名前の横に、赤いペンで小さなチェックマークを書き入れた。
第一の扉は閉じた。次は、彼らの用意した「出口」へと、丁寧に誘導する時間だ。ヤンは受話器を取り上げ、次の演者である弁護士のハンに短いメッセージを送った。
「客が入った。仕込みは上々だ」
サウス・ペニンシュラの夜明けはまだ遠く、空港の地下深くで、一人の男の人生が音を立てて崩れ去ろうとしていた。
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