第1章 #2 ロミオとジュリエットと勘違い
地獄とは、火の海でも針の山でもない。
活字中毒者にとっての地獄とは、世界中のあらゆる書物が「黒塗り」に見えることだ。
アリスとの契約から三日。僕の視界は最悪だった。
教科書を開けば、そこにあるのは黒いインクの帯だけ。スマホのニュースアプリを開けば、画面はバグったように真っ黒。駅の看板も、コンビニの商品名も、すべてが検閲(ブラックアウト)されている。
今の僕にとって、世界は情報の欠落した不良セクタの塊だった。
「……クソ。早く『元凶』を見つけて修正しないと、禁断症状で死ぬ」
僕は苛立ちを隠そうともせず、昼休みの校舎を徘徊していた。アリス曰く、僕の視界をジャックしている『華氏451度』の呪いは、この学校で発生している〈栞(しおり)病〉の親玉を倒さなければ解除されないらしい。
だが、その親玉にたどり着く前に、小規模な雑魚敵が僕の前に立ちはだかった。
場所は、中庭を見下ろす渡り廊下。
そこに、校内きってのバカップルとして名高い演劇部の二人組がいた。
彼らは手すりを挟んで向かい合い、互いの手を握り締めて、うっとりと見つめ合っている。
「ああ、ロミオ、ロミオ! どうしてあなたはロミオなの?」
「恋の方角が僕を案内してくれたのさ。愛はどんな石垣でも乗り越える!」
……頭が痛い。
シェイクスピアも草葉の陰で激怒しそうな大根役者ぶりだ。
だが、問題は彼らの演技力ではない。周囲の生徒たちが「いつものことか」とスルーしている中で、僕の目にだけ映っているノイズだ。
彼らの周囲だけ、空間が歪んでいる。コンクリートの渡り廊下が、重厚な石造りのバルコニーに見える。そして、今は真昼間だというのに、彼らの頭上には蒼白い「月明かり」がスポットライトのように降り注いでいた。
明らかに〈栞病〉の初期症状だ。
「チッ……。あいつらが元凶か?」
僕は舌打ちをして、その場を離れた。
もし彼らがこの世界の物語を狂わせている元凶なら、叩き潰して僕の活字を取り戻さなければならない。
僕は北校舎の聖域へと急いだ。
***
図書室に駆け込むと、アリスは優雅に紅茶を啜りながら、僕が昨日差し入れたマカロンを
「アリス。演劇部の二人が『ロミオとジュリエット』を演じ続けている。渡り廊下がバルコニー化し、月まで出ている始末だ」
僕が手短に状況を伝えると、アリスは口元の砂糖を指で拭い、鼻で笑った。
「バルコニー? 月明かり? ……ふん、随分と
僕が詰め寄ると、アリスは首を横に振った。
「いいえ。彼らはただの
「浅い?」
「貴方が聞いてきた彼らのセリフよ」
アリスは僕の報告を脳内で反芻し、呆れたように言った。
「『どうしてあなたはロミオなの』は第2幕第2場のセリフ。でも、その直後に『愛は石垣を乗り越える』なんて、本来はもっと後のセリフを適当に繋げているわ。時系列がめちゃくちゃよ」
彼女はマカロンの残りを口に放り込み、断言した。
「彼らはジュリエットの苦悩に共感しているんじゃない。『悲劇の主人公である自分たち』に酔っているだけ。だから発生している現象も、そんな書き割りみたいなバルコニー止まりなのよ」 「……つまり、ファッションメンヘラってことか」
「ええ。原作へのリスペクトがない演劇なんて、ただの悪ふざけよ」
アリスは最後の一口を紅茶で流し込み、呆れたように、けれど不敵に笑って僕を見た。
「行ってらっしゃい、編集者さん。その三流演劇の幕を下ろしてきてね」
「……面倒だが。僕の読書のためだ」
僕は席を立った。
武器はいらない。彼らの物語が「偽物」であるという確信さえあれば、それで十分だ。
***
放課後の屋上。
そこは、この世の終わりのような悲壮感に包まれていた――いや、包まれているような「設定」になっていた。
フェンス際に立つロミオとジュリエット。 彼らの手には、どこから調達したのか、怪しげな液体の入った瓶が握られている。
「さあ、ジュリエット。この毒を飲んで、永遠の愛を誓おう」
「ええ、ロミオ。死だけが私たちを結んでくれるのね……!」
彼らの目には、きっとヴェローナの美しい
だが、僕に見えているのは、錆びたフェンスと、背景に見える駅前のパチンコ屋のネオンサインだけだった。
二人が瓶の蓋を開け、口元に運ぼうとしたその瞬間。僕は走った。文字を取り戻すためなら、どんな茶番にも付き合ってやる。
「待てッ!」
「!? 誰だ、僕たちの神聖な儀式を邪魔するのは!」
ロミオ(?)が振り返る。その隙をついて、僕は彼の手から瓶をひったくった。 ジュリエット(?)が悲鳴を上げる。
「ああっ! ダメよ、それは猛毒の……!」
猛毒。触れれば死ぬ劇薬。彼らがそう信じ込んでいるなら、この液体は栞病の法則に従って、致死性の毒に変質している可能性がある。
だが、アリスは言った。「読み込みが浅い」と。 僕はあの魔女の審美眼を信じる。
僕は奪い取った瓶を、一気に喉に流し込んだ。
「――ッ!?」 二人が息を呑む音が聞こえる。 液体が喉を通り、食道を滑り落ちる。
その味は。
「……ぬるい」
僕は顔をしかめ、空になった瓶を地面にカランと投げ捨てた。
「ただの、ミネラル麦茶だな」
「え……?」
「しかも、開封してから少し時間が経ってる。香ばしさも飛んでるぞ」
二人はぽかんと口を開けている。
僕は袖で口元を拭い、呆然とする二人に言い放った。
「お前たちの
蒼白かった月明かりの幻覚が、ノイズのように揺らぎ、霧散していく。石造りのバルコニーが消え、ただの汚れたコンクリートの床に戻る。 魔法が解けたのではない。彼らが「恥ずかしさ」で我に返ったのだ。
「シェイクスピアは、麦茶で死ぬようなコメディは書いてない。……退場しろ、大根役者」
僕の
心中するはずが、階段へ向かって全力疾走だ。
あとには、僕と、空になった茶色い瓶だけが残された。
「……はあ」
僕はその場にへたり込んだ。腹の中がタプタプする。
ふと、投げ捨てられた瓶のラベルを見る。相変わらず、商品名は黒く塗りつぶされて読めないままだ。
「クソッ……やっぱり雑魚を倒したくらいじゃ、治らないか」
***
「酷い目にあった」
図書室に戻った僕は、椅子に深々と沈み込んだ。
「ふふ。お疲れ様」
アリスは新しい紅茶を淹れながら、楽しげに笑っていた。
「三流の役者には、三流の小道具がお似合いよ。彼らも少しは懲りたでしょう」
「全くだ。……だが、分かったことがある」 僕はアリスが出してくれた紅茶――今度は本物のダージリン――を啜り、言った。
「〈栞病〉の威力は、宿主の『本気度』に比例するんだな」
「ご名答。浅い読み手は麦茶を生み出し、深い読み手は……」
アリスの視線が、ふと窓の外へ向けられた。 その瞳の奥に、冷たい光が宿る。
「……冬のニューヨークを現出させるの」
その言葉に、僕は背筋が寒くなるのを感じた。 今回の件は、ただの予行演習に過ぎない。 この学校にはまだ、僕から活字を奪い、世界を凍らせようとする、本物の『怪物』が潜んでいるのだから。
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