図書室の魔女は未完の結末(バッドエンド)しか愛さない

ホタポイ捨て

第1章 『ライ麦畑でつかまえて』

プロローグ バッドエンドはお好き?

 現実は、推敲不足の悪文で書かれた三流小説だ。  

 伏線は回収されず、キャラクターの動機は支離滅裂。ご都合主義デウス・エクス・マキナで解決したかと思えば、何の意味もない悲劇が唐突に降りかかる。神様という名の作家は、明らかに筆を折っているか、あるいは編集者に見捨てられたに違いない。

 この退屈で、救いのない日常。僕はただ、乱丁だらけのページを義務的にめくるように、今日という日を消費していた。


 五月の放課後だった。  

 埃っぽい廊下の突き当たり、進路指導室の前を通ったとき、激しい怒鳴り声が僕の鼓膜を震わせた。

「……だから! 俺は、そんな大学に行きたくないって……ッ!」

 声の主は、クラスメイトの男子生徒だった。名前は確か、田中か鈴木か、そんなありふれた名前だったと思う。  

 彼は顔を真っ赤にして、学年主任の教師に食って掛かっていた。よくある進路を巡る口論。ありふれた青春のワンシーン。この学校という舞台装置の中では、背景モブに過ぎない出来事だ。僕は興味なさげに視線を逸らし、通り過ぎようとした。

「親も先生も、勝手に決めつけやがって! あんたたちは全員――」

 彼は叫んだ。その口の動き、喉の震え、首に浮かんだ青筋。すべてが、決定的な拒絶の言葉を紡ごうとしていた。人生の岐路に立った少年の、魂の叫びになるはずだった。

 だが。

 ――プツン。

 世界から、音だけがえぐり取られた。

 彼は口を大きく開けている。舌も動いている。肺から空気も押し出されているはずだ。  なのに、悲鳴も、怒声も、空気の摩擦音さえもしない。まるで、そこにあるはずの数行の文章が、検閲で黒く塗りつぶされたように。

「……は、……?」

 僕は足を止めた。  何だ? 今、何が起きた?  鼓膜がおかしくなったのか? それとも、急な気圧の変化による一時的な難聴か?僕は自分の耳を叩く。ペチ、という乾いた音が聞こえる。自分の足音も聞こえる。遠くのグラウンドから響く、ブラスバンド部の不揃いなトランペットの音も聞こえる。けれど、目の前の彼が発しているはずの「言葉」だけが、物理的に消失していた。

 彼は喉を掻きむしり、酸欠になった魚のようにパクパクと口を開閉させている。  

 恐怖に引きつった顔。無音の絶叫。教師は眉をひそめ、苛立ち混じりに何かを言った。「もう言うことがないならこれまでだ。」とでも言ったのだろうか。そのまま扉を閉めてしまった。

 違う。黙ったんじゃない。奪われたんだ。  

 僕は背筋に冷たいものが走るのを感じ、後ずさった。  

 ……おかしい。こんなこと、あり得るはずがない。これは現実だ。物理法則に支配された確固たる世界のはずだ。なのに、今の現象はまるで、誰かが強引にシナリオを書き換えたみたいじゃないか。

「……何なんだよ、クソ」

 僕は逃げた。九条綴(くじょう・つづる)という一人の読者として、理解不能な恐怖から目を逸らすように、北校舎の最果てにある図書室へと急いだ。  

 あそこなら、こんな不条理はない。整然と並ぶ活字だけが、僕に安らぎを与えてくれる。

 あそこだけが、僕の聖域だ。

 

 息を切らして階段を駆け上がり、重厚な木の扉を開ける。鼻腔をくすぐる、古びた紙とインクの匂い。窓から差し込む西日が、空気中の埃を金色の粒子に変えて浮遊させている。

 静寂。誰もいないはずの閲覧席へ、僕は安堵の息を吐きながら向かった。

 しかし。

「ねえ」

 誰もいないはずのその場所から、銀の鈴をならしたような少女の声がした。  ビクリと肩が跳ねる。心臓が早鐘を打つ。  

 恐る恐る顔を上げると、そこに、この世界で一番美しい「異物」がいた。

 窓際の一番奥。僕の指定席とも言える場所の向かいに、一人の少女が座っていた。透き通るような白磁の肌に、西日を吸い込んで透ける色素の薄い金色の髪。長い睫毛が落とす影さえも、計算された芸術のように美しい。  

 そして何より目を引いたのは、制服のスカートから伸びる白く細い足が、無防備に裸足だったことだ。脱ぎ捨てられたローファーは見当たらない。まるで最初から、靴などという文明の拘束具を知らない妖精のように、彼女はそこにいた。

 見たことのない顔だ。だが、その浮世離れした美しさは、この退屈な日常風景からあまりに浮いていた。彼女は手元の文庫本に視線を落としたまま、僕を見透かすように言った。

「貴方は、どこに行けばアヒルに会えるか知ってる?」

 ……は? 僕は混乱した頭で、彼女の言葉を反芻する。アヒル? こんな時に? 生物室の誤りか?

 だが、その突拍子もない問いかけは、僕の記憶の奥底にある物語のデータベース(書架)とリンクした。冬の池。凍りついた水面。行き場を失う水鳥たち。

「……サリンジャーか」

 乾いた唇から、無意識に言葉が漏れた。 「J.D.サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』。……主人公のホールデン少年が、タクシー運転手に執拗に尋ねる台詞だ」

 少女は「ふふ」と楽しげに笑い、パタンと本を閉じた。その手にあるのは、赤い表紙の文庫本。白水Uブックス、野崎孝訳の『ライ麦畑で捕まえて』だ。名門校を追い出され、インチキ《phony》だらけの大人社会に中指を立てて彷徨う少年の物語。

「ご名答。……貴方、本を読むのね」

「人並みにはな」

「じゃあ、分かるでしょう? ホールデンが一番嫌っていたものが何か」

 彼女は裸足のまま椅子から立ち上がり、音もなく僕に歩み寄る。  

 床板がきしむ音さえしない。まるで重力から愛されていないかのように軽やかだ。  甘いような、それでいて古い栞のような香りが鼻孔をくすぐる。  彼女の大きな瞳には、今の僕の動揺などお見通しだと言わんばかりの、理知的な光が宿っていた。

「彼はね、大人が押し付ける『もっともらしい言葉』が大嫌いだった。だから耳を塞いだの。……さっきの彼も、そうだったんじゃない?」

 心臓が跳ねた。  さっきの彼。進路指導室の前で言葉を奪われた男子生徒。  なぜ、この少女がそれを知っている? 彼女は初めからここにいたはずなのに。見ていたかのように語るじゃないか。

「君は……何を知っているんだ? さっきのアレは、一体」

「物語が侵食しているのよ」

 少女は僕の目の前で立ち止まり、悪戯っぽく、しかしどこか悲しげに囁いた。

「この学校には今、自分が『ライ麦畑の捕まえ手』だと思い込んでいる人間がいる。……その役目を果たすために、彼は『大人の言葉』をこの学校から消そうとしているの」

 彼女は僕の胸元に、細い人差し指を突きつけた。爪の先まで手入れされたその指は、僕の鼓動を感じ取る聴診器のようだった。

「私の名前は詩織(しおり)・アリス。……ねえ、読書家さん。貴方なら、このページ抜けだらけの狂ったプロットを、正しく修正できる?」

 アリスは微笑んだ。  

 それは、未完の結末バッドエンドを嘲笑うような、不敵で、そしてとびきり魅力的な魔女の笑みだった。

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