第5話 父の残響

翌朝、明日香と達也は自宅に戻った。

クロノスリリィの情報――そしてこの世界の異常の手がかりを探すために。


窓から差し込む朝の光が、机の上の埃を淡く照らす。

しんとした空気の中に、かすかな木の匂いと、時間の止まった家の静けさがあった。


「ただいまー!」

達也が大きな声で挨拶をする。思わず明日香はくすりと笑った。

声が家の奥まで響く感覚が、懐かしくて、胸の奥をくすぐった。


「なにそれ、自分の家みたいに」

「いや、こうでもしないと変な感じすんだよ。明日香の家、入るの緊張するし」

「昔から遊びに来てたじゃん」

「子どもの頃とな、今は違うの」


達也は口を尖らせて拗ねたふりをし、すぐにニッと笑った。

その笑顔に、明日香も微かに笑みを返す。

小さな日常のやり取りが、かつての日々を呼び覚ますようだった。



---


二人はまず、母・加奈子の部屋へ向かった。

机の引き出しを開けると、二冊の古びた本が並んでいた。

一冊は研究日誌、もう一冊は日記帳。

どちらも長い時間を静かに眠っていたように、黄ばみ、端がほつれている。



---


研究日誌を手に取ると、紙の匂いと共にインクの薄れた文字が現れた。

「明日香の体内クロノ因子量」「抑制薬の投与記録」――

母がどれほど自分を見守ってきたかが、数字と記録の中に刻まれていた。


ページをめくる手が止まる。

瓶の写真と化学式、そして見覚えのあるラベル。


「……これ、薬?」

その声には驚きよりも、どこか静かな確信があった。


明日香の脳裏に、母の優しい声が浮かぶ。

――『これを飲めば、すぐ楽になるからね』

幼い日の記憶が胸を刺す。


「私、ずっとこれ飲んでた……クロノ因子を抑えるためだったんだ…」

微かに震える声。

けれどその表情には、不思議な安堵が宿っていた。

「……だから、私、普通に生きられてたんだね」


達也は黙って頷いた。言葉を挟むことができなかった。

彼もまた、その“普通の重さ”を理解していたからだ。


明日香は棚の隅を探り、小瓶を見つけて掴み上げた。

だがそれは――粉のように崩れ、指の間から静かに零れ落ちた。


「……粉化してる」


白い粒が光に溶けていく。

その儚さに、明日香は小さく笑った。

「お母さん……私のこと、最後まで守ってくれてたんだね」


その瞬間、クロノスリリィの青いランプが淡く点滅した。

まるで“彼女の想い”に応えるように。


「でも……もう、抑えなくてもいいよね」

その呟きはかすかに震えていたが、確かな意志を帯びていた。



---


もう一冊――日記帳をそっと手に取る。

粉化が進み、触れると崩れそうだった。


「待って、無理に触ったら消えちゃう」

達也の声に、明日香はクロノスリリィを見下ろす。

青いボタンが淡く光を放っていた。


そっと押す。

淡い光が日記を包み、粉化していたページが静かに再生されていく。

まるで時間が巻き戻るように、文字が一行ずつ浮かび上がった。


最後の行には、震える筆跡でこう記されていた。


「融合……パスワ」




「……意味はわからない。でも、きっと重要なこと」

明日香は眉を寄せ、文字を見つめた。


達也が静かに言う。

「とりあえず、持っていこう」


二人は日記と研究日誌をカバンにしまい、そっと視線を交わした。

廊下を歩く足音が、家の静けさをかき混ぜる。

埃が舞い、光の帯の中を漂った。



---


父・波川源次郎の書斎。

机の上には、埃をかぶった書類とノートが無造作に散らばっていた。

ふと、机の隅に不思議な腕時計のような装置が目に入る。


「これ……クロノスリリィに似てる」

「……父さんの筆跡だ。『クロノスエコー』って書いてある」


達也が拾い上げると、装置は腕に吸い付くように収まり、青い光が脈打つように点滅した。

耳元で、かすかな電子音――そして、“誰かの声”が微かに重なった気がした。


懐かしい、あの声。



---


明日香の胸がざわめく。

息を呑み、手を握る。

胸の奥に、あの夏の日の父の匂いと温もりが蘇る。


――鮮明に蘇る記憶。


夏の日の実験室。

ガラス越しに見つめる父の背中。

「外で待っているんだぞ、明日香」

その声が、光の向こうで揺れた。


けれど、あの光に惹かれて一歩を踏み出してしまった。


「明日香!」


振り返る父の瞳。

次の瞬間、制御装置が狂い、クロノス因子が暴走する。

轟音。閃光。

実験室が崩れ落ちる中、父は明日香を抱きしめ――光に飲まれた。


「お父さんっ!」


幼い明日香の叫びは虚空に溶け、ただ白い光だけが残った。



---


現実に引き戻されたとき、達也の声が優しく響く。

「……大丈夫か?」

「……うん」


明日香はかすかに頷いた。

胸に残る父の温もりが、まだ消えずにそこにあった。


そのとき、クロノスリリィの黄色いランプがふと点滅した。

まるで“伝えたいことがある”と訴えるように。


だが、二人はその微かな光に気づかぬまま――

静まり返った家の中を、過去の残響に導かれるように歩き出した。

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