第2話:翌朝
翌朝。
大学の講義室は、埃っぽい空気と若者の熱気で満たされていた。
「ねえねえ、昨日の飲み会どうだった?」
「マジでエグかったって! 佐藤がさぁ……」
あちこちで交わされるハイテンションな会話。
カサついた笑い声。
椅子の擦れる不快な音。
俺、久住湊は、教室の最後列の端――通称「指定席」に座り、死んだ魚のような目で黒板を見つめていた。
(……うるさい)
頭が痛い。
昨夜、店を閉めてアパートに帰ったのが早朝四時。
そこから仮眠を取って一限に出席しているのだから、コンディションは最悪だ。
重たい
今の俺に、昨夜のバーテンダーとしての輝きは微塵もない。
髪は寝癖がついたままのボサボサ頭。
度の合っていない野暮ったい銀縁眼鏡。
着古したグレーのパーカーに、膝が出たチノパン。
どこからどう見ても、キャンパスライフを謳歌する層とは無縁の、地味で冴えない「モブ学生」である。
だが、これでいい。
この姿こそが、俺の最強の鎧なのだから。
「あ、
教室の入口付近が、にわかに華やいだ。
その名前を聞いた瞬間、俺の背筋が反射的に凍りつく。
(来た……)
俺は手元の教科書を顔の高さまで持ち上げ、バリケードを築いた。
その隙間から、こっそりと様子を窺う。
教室に入ってきたのは、如月愛華だ。
「みんな、おはよう!」
弾けるような笑顔。
昨夜の疲れ切った表情や、眼鏡姿のアンニュイな雰囲気はどこへやら。
緩く巻かれた栗色の髪はツヤツヤと輝き、淡いピンクのカーディガンが春らしい清楚さを演出している。
「如月さん、昨日はお疲れ様! 大丈夫だった?」
「うん、全然! みんなと話せて楽しかったよ」
取り巻きの男子たちに囲まれ、彼女は完璧な「キャンパスの華」を演じていた。
その声は鈴のように澄んでいて、昨夜のBarで聞いた「もう一歩も動けない」という掠れた声とは別人のようだ。
(……すごいな)
俺は心の中で舌を巻く。
彼女はプロだ。
「如月愛華」という理想のヒロインを演じ切る、一流の女優だ。
もし昨夜の出来事がなければ、俺も彼女のこの笑顔を信じて疑わなかっただろう。
だが、今の俺には見えてしまう。
完璧な笑顔の端に潜む、微かな疲労の色が。
笑うたびに僅かに引きつる目尻が。
『本当の私なんて、誰も興味ない』
昨夜、氷の溶けたグラスを見つめて彼女が零した言葉が、脳内でリフレインする。
この教室にいる何十人もの学生の中で、彼女の「本当の顔」を知っているのは、恐らく俺一人だけだ。
そう思うと、奇妙な優越感と、それ以上の罪悪感が胸に渦巻いた。
(ごめん、如月さん。俺、知ってるんだ。君が昨夜、ジントニック一杯で救われた顔をしていたことを)
しかし、それを口にするわけにはいかない。
もし俺が「昨日はどうも」なんて話しかけようものなら、俺の平穏なモブ生活は終了する。
「え、なんで久住が如月さんと知り合いなの?」と周囲に怪しまれ、詮索され、やがてはBarでのバイトまでバレてしまうだろう。
それだけは絶対に避ければならない。
俺は教科書に顔を埋め、気配を消すことに全神経を集中させた。
俺は空気。俺は壁。俺はただの背景。
念仏のように唱えながら、彼女が通り過ぎるのを待つ。
カツ、カツ、とヒールの音が近づいてくる。
彼女が、俺の席の近くの通路を通る。
心臓が早鐘を打つ。
バレるはずがない。
髪型も、服装も、雰囲気も、声のトーンも、何もかも変えている。
同一人物だと気づかれる要素はないはずだ。
ヒールの音が、俺の真横で一瞬止まった。
(!?)
全身の毛穴が開くような緊張感。
まさか、気づかれた?
「あの、昨夜のマスターですよね?」と言われたらどうする?
「人違いです」で押し通すか? いや、声でバレるか?
冷や汗が背中を伝う。
俺が固まっていると、頭上から声が降ってきた。
「……おはよう、久住くん」
恐る恐る顔を上げる。
そこには、教科書を抱えた如月さんが立っていた。
完璧な笑顔を浮かべて、俺を見下ろしている。
「あ……」
俺は喉に詰まったような声を出し、眼鏡の位置を直すフリをして視線を逸らした。
「……おはよう、ございます」
精一杯の、陰キャ演技。
声は小さく、語尾を濁し、相手の目を見ない。
昨夜の「いらっしゃいませ」という低音ボイスとは似ても似つかない、頼りない発声。
彼女は一瞬、何かを探るように俺の顔をじっと見た気がした。
だが、すぐにふわりと微笑んだ。
「今日も一番後ろなんだね。……ふふ、定位置だ」
それだけ言うと、彼女は再び歩き出し、友人たちが待つ前の席へと向かっていった。
「愛華ー! こっちこっち!」
「あ、待ってよー!」
華やかな輪の中に吸い込まれていく彼女の背中を見送り、俺は大きく息を吐き出した。
(……寿命が縮んだ)
机に突っ伏す。
手にはじっとりと汗をかいていた。
どうやら、正体はバレていないらしい。
彼女の態度は、あくまで「同じ学科の同期への社交辞令」の域を出ていなかった。
「定位置だ」という言葉も、単にいつも後ろにいる地味な奴、という認識でしかないだろう。
しかし、同時にこうも思う。
(よく見てるな……)
俺のようなモブがどこに座っているかなんて、普通はいちいち覚えていないものだ。
彼女の観察眼の鋭さに、改めて戦慄する。
同時に、昨夜の彼女の言葉を思い出す。
『本当の私なんて、誰も興味ない』
自分が見られていないという孤独を抱えている人間は、得てして他人の視線や態度には敏感なものだ。
もしかして、今の俺の態度は過剰に「壁」を作っているように見えただろうか。
いや、壁も何も、俺は全力で逃げているのだから当然だ。
授業開始のチャイムが鳴る。
教授が入ってきて、気だるげに講義を始める。
俺は黒板を書き写すフリをしながら、前の席に座る彼女の後ろ姿をぼんやりと眺めた。
艶やかな髪が、窓からの光を受けて天使の輪を作っている。
(……今夜も、来るのかな)
ふと、そんな考えが頭をよぎり、俺は慌てて首を振った。
何を期待しているんだ、俺は。
彼女にとってBarはただの逃げ場所で、俺はただの店員Aだ。
それ以上の関係になんて、なるはずがない。
なってはいけないのだ。
俺はシャープペンシルの芯をカチカチと出しながら、自分に言い聞かせる。
これは、二重生活だ。
昼と夜、光と影。
2つの世界は決して交わらない。交わってはいけない。
午後五時。
講義を終えた俺は、逃げるように大学を後にした。
「久住ー! 今日こそ飲み行かないかー?」
「あ、ごめん。バイトあるから」
ゼミの陽キャたちの誘いを秒速で断り、雑踏に紛れる。
彼らに悪気がないのは分かっているが、俺の世界に彼らは眩しすぎる。
駅のコインロッカーへ急ぐ。
いつもの儀式。
モブの仮面を脱ぎ捨て、マスターの仮面を被る時間だ。
トイレの鏡の前で、俺は自分と対峙する。
コンタクトを入れ、髪を上げ、背筋を伸ばす。
鏡の中の男の目が、徐々に鋭さを帯びていく。
「……よし」
久住湊は、ここで眠りにつく。
これからは、Bar『ノクターン』のマスターだ。
俺はビルの階段を降り、重たい扉を開ける。
カウベルが鳴り、静寂と冷気が俺を迎えた。
カウンターの中に入り、グラスを磨き始める。
いつものルーティン。
だが、今日は昨日までとは少しだけ気分が違った。
扉の方を、無意識に気にしてしまう。
時計の針を、何度も確認してしまう。
(……馬鹿か、俺は)
自嘲気味に笑い、俺はステア用のバースプーンを手に取った。
プロに徹しろ。
誰が来ても、誰が来なくても、俺は最高の一杯を提供するだけだ。
しかし。
そんな俺の決意を試すように、深夜一時を回った頃。
カランコロン。
乾いたベルの音と共に、昨夜と同じ香りが店内に流れ込んできた。
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