第22話 一線
剪定ばさみの音が周囲に鳴り響く。
それはまるで音楽のように響き渡り――私はその音を聞きながら幸福を感じていた。
ハロルドが表に出て4日が経った。
普段のハロルドは基本的に汚れてもいいように、いつも絵具のついたラフな服装をしているが、最近は少し厚みのある庭を剪定するための服を着ていた。
どうやらこの庭を管理していたのは、ハロルドのようで、彼はガーデナーとしても優秀だった。
本当に神はこの人物をどれだけ愛したのだろうというほど、彼らは何でもできる。
先ほどまで聞こえていた剪定ばさみの音が止まったので、庭を見るとハロルドは切った枝を一輪車に乗せて運んでいた。
私も窓ガラスを拭き終わったので、掃除用具を片付けてキッチンに行き、お茶の用意をしてアトリエに向かった。
そして戻ってきたハロルドに声をかけた。
「ハロルド、庭も随分ときれいになりましたね、お茶にしませんか?」
ハロルドが汗を額から流しながら笑った。
「はい。ありがとうございます。今日はここまでにしようと思っていました」
ハロルドとガーデンパーティーの準備を始めて4日が過ぎた。
庭は随分と美しくなり、ガーデンパーティー用のテーブルが置けるスペースもできた。
「お疲れ様でした。あ、タオルを持ってきますね」
私がタオルを持って来ようとするとハロルドが声を上げた。
「ああ、タオルはいりません」
ハロルドを見ると、その場で上半身に身に着けていた厚手の服を脱いだ。
するとハロルドの上半身が見えた。
いつ運動しているのか、と疑問に思うが筋肉がきれいについた背中が見えた。
汗が流れ落ちるのさえ、芸術作品のようだった。
「汗を流してきます。着替えを持って来てくれませんか?」
「はい。持って来ます」
ハロルドは庭から外を回って温泉に行くようだったので、私は急いで二階のクローゼットに行って着替えを持ってお風呂に向かった。
「失礼しま……す」
ノックをして小さく声をかけて服を棚に置いた。
すると扉が開いて、何も身に着けていないハロルドが出て来たので急いで後ろを向いた。
「す、すみません!! すぐに出ます!」
私が慌ててその場を去ろうとした時だ。
「待ってください……」
途端にまだ身体を拭いていない濡れたままの彼に後ろから抱きしめられた。
(……え?)
床にハロルドから流れる雫が落ちる。
背中から普段よりも彼の熱い温度を感じる。
服の中に水が染み入るように濡れる感覚は、言いようのない情動を煽る。
「……濡れてしまいます」
思わず呟くと、ハロルドがもっと力を入れて抱きしめ耳元で囁いた。
「少しこのまま……動かないで」
ハロルドはそう言うと、私から離れた。
急にハロルドが離れると、服が水に濡れた感触だけが残り、それが冷たくて先ほどのハロルドの体温を思い出してしまう。
私はまるでハロルドの言葉が縄になって縛られているように、動けない。
布の擦れ合う音が聞こえて、ハロルドが身体を拭いているのだとわかる。
そしてハロルドが私の顔をのぞきこんだ。
下半身は服を着ているが、上半身は何も身に着けていない。
「アリシア、赤くなっています」
そう言って笑うと、ハロルドが片方の腕で私を抱き上げた。
「え!? ちょっと、ハロルド!!」
ハロルドは私を見上げて微笑んだ。
「濡れてしまったでしょう? アトリエに着替えがあります」
私の部屋には、ドレスなどの服は入らなかったので、普段使わない服は全てハロルドのアトリエのロッカーに入れてある。
「ハロルド……下ろしてください。ずっと庭の仕事をしていたのに……」
ハロルドは私を見て甘さを含んだ瞳で見つめながら言った。
「お願いします。あなたを……離したくありません」
そしてハロルドは私を抱いたまま歩くと、アトリエに着いた。
ハロルドは、私を抱いたまま庭に面した部屋の奥――つまり、私の絵を描いた大きなベッドのある場所への扉を開けた。
私はこの状況でこの部屋に連れて来られた意味がわからないほど、子供ではない。
「アリシア……好きです」
ハロルドは私を抱いたまま私の首にキスをした。
それが、彼の最後通告だと理解した。
私は、彼の瞳を見た。
「私も好きです」
ハロルドの瞳の温度が……変わり、高温になった気がした。
その視線が……熱い。
彼は私を自分の腕から少し滑らせて横抱きにすると、そのままハロルドの唇が近づいて気が付けば唇を合わせていた。
柔らかな感触を唇に感じながら、お尻の下にベッドの感触を覚える。
そのまま角度を変えて彼と何度も唇を合わせていると、身体から水に濡れていた感覚が消え、肌が直接外気にさらされたような冷たさを感じた。
瞳を上げれば、見たこともないほどの熱で揺れる瞳のハロルドと視線が重なった。
再び感じたハロルドの唇の柔らかさと、さっきまで感じていた肌に感じた冷たさは……ハロルドの体温で上書きされていた。
私はハロルドの首元に両手を回して、目を閉じてただハロルドに与えられる感覚に身を沈めた。
◇
その日、私には突然の休暇が訪れた。
私はハロルドとずっと一日中ベッドで過ごした。
気が付けば空には上弦の月が浮かんで窓から部屋の中を照らしていた。
こんな幸せな時間がずっと続いてほしい、とそう願っていた。
ハロルドの腕の中はとてもあたたかくて、まどろんでいると、ハロルドが私を後ろから抱きしめ、切なそうに言った。
「そろそろ、あなたを部屋に戻さなければ……」
私は驚いて少しかすれた声を上げた。
「……え?」
てっきりここで朝まで一緒に過ごせると思っていたので、私は思わず振り返ってハロルドを見た。
「そんな顔をしないでください、離せなくなる」
ハロルドはつらそうな顔をしてゆっくりと私から離れて、ベッドの下に投げ捨ててあった下の服を着ると私のおでこにキスをした。
そして何も身につけていない私に、アトリエにかけてあった彼の上着を羽織らせた。
「もしかしたら、朝起きたら……私はいないかもしれません。ジークに……こんな可愛いあなたを――見せたくありません」
「あ……」
そう言われて気づいた。
ハロルドが表に出てもう4日も経っている。
そろそろ彼が……出てくるかもしれない。
「通常、私たちは寝ている間に入れ替わります」
私は寂しいという感情を押さえて答えた。
「そう……ですね」
ベッドから起き上がろうとすると身体に力が入らなかった。
すると身体がフワリと浮いた。
「あなたの部屋まで連れて行きます」
私はハロルドの首に両手を回すと、彼が私の唇にキスをしてつらそうな顔をした。
「ずっと、一緒にいたい……」
私もハロルドを見て呟いた。
「そうですね……」
見つめ合って再び唇を合わせると、ハロルドが私を抱き上げたまま歩き出した。
いつもの廊下が、とても……冷たく感じた。
ギシギシと音のする階段を上ると、私はベッドの上に寝かせられた。
このベッドはこんなにも冷たく……広かっただろうか?
ハロルドは苦しそうに笑うと再び口付けた。
「おやすみなさい……」
私は自分ではそれなりに大きな声を出したつもりだったが、ほとんど声にならなかった。
「……すみ……さい」
ハロルドは両手の手の平をきつく握りしめて、つらそうな顔で部屋を出て行った。
身体は疲れて動けないのに、目は冴えていた。
一人でこの大きなベッドに寝るのがたまらなく寂しく感じたのだった。
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