第18話 幻の月






「アリシア……」


 ハロルドの腕は大きくて……心地よい。

 でも私はずっと、この腕に抱かれることが怖かった。

 彼の想いはとても重くて、しかも彼の背負っているものも……重いことも理解しているつもりだ。

 それに私も、捨てられてばかりだ。

 誰かを受け入れても、また捨てられると思うと、どうしても怖かった。

 

 ――ああ、また傷つくかもしれないのに……どうしてまた人を好きになってしまったのだろう。


 感情なんて厄介な物を殺して、日々を淡々と生きることができたらどれほどいいだろう?

 

 感情に振り回されて、踊らされて、まるで道化のような自分を恨めしく思うのに、ハロルドの腕の中が心地よくて、抜け出せそうもない。

 もっときっと、平坦な道はある。

 でも私は――ハロルドの側にいたい。

 気が付けば私はハロルドと見つめ合い、口づけを交わしていた。

 唇を離して、ハロルドを見ると彼の瞳が揺れていた。


(ああ、きっとハロルドも……怖いんだ……)


 なんとなくそう思えた。

 自分でも自分の感情がコントロールできないのかもしれない。

 もしかしたら、私よりも彼の方が……誰かを好きになることに怯えていたのかもしれない。


「アリシア……好きです」


 そうきつく抱きしめられた。

 そんな彼を私も抱きしめた。

 ハロルドは私を抱き上げるとそのままベッドに座って、私を背中から抱きしめた。


「お願いします……私のそばに居てください……」


 そう言って首筋に唇を押し当てた後に再び私を抱く腕に力を入れた。

 感じるのはハロルドの心音と、体温。そして遠くで聞こえる鳥の声。


「そばに……います」


 そう答えて、再び彼が私の頬や首に……口づけをした。











 やがて青空から辺りがオレンジ色に染まり、夜の帳が降りてもハロルドは、私の首に顔を寄せて、抱きしめていた。

 まるで何か足りないものを埋めるような行為に、少し前の私なら……怯えていたかもしれない。

 でも今は、ハロルドが何かを求めているのなら、存分に差し出したいと思っていた。

 寝ているのかと思うが、時折、彼の唇が私の首に触れるので、寝ているわけではないだろう。

 彼は飽きることなく、ひたすら私を抱きしめていた。

 私もそんな彼にひたすら付き合おうと思った。


「今日は……満月ですね……」


 ずっと黙っていたハロルドが口を開いたので、私も窓から見える月を見上げた。


「そうですね」


 するとハロルドはしみじみと言った。


「満月を見るのは……久しぶりです。この月は、どうやら私を嫌っているようなので……」


 その一言で、満月の夜はジークが外に出ているということを察した。

 そう言えば、今日の朝はジークの人格が外に出て、買い物に行った。

 目の前で突然、人格が入れ替わって驚いたのを思い出す。


(そういえば……ジークは3日か、4日周期で入れ替わるって言っていたけど……今回は短いし……何かいつもとは違うきっかけでもあったのかな……)


 私が朝のことを思い出そうとしていると、ガリと耳を噛まれた。


「んっ……」


 思わず声を上げると、ハロルドの声が聞こえた。


「アリシア、他の男のことを考えないでください」


 そしてハロルドに顔をのぞきこまれて、至近距離で見つめ合った。

 ハロルドの顔が近づいて、目を閉じた。

 唇に柔らかさを感じ、ゆっくりと背中から温かさが消えたと思うと、今度は背中にベッドの感触を感じた。

 目を開けると、瞳の中に欲を宿したハロルドが映り、彼に押し倒されたのだと思った。

 ハロルドの手が私の頬に触れ、彼をじっと見つめた。

 月明かりが、彼の髪を照らしていた。


「きれいです。アリシア……」


 切なそうな色気を含んだ瞳でそう言われて、心臓の鼓動が速くなる。

 頬を撫でる手が止まり、彼の顔が近づいてきて、目を閉じようとした。

 だが……いきなり、彼の瞳の色が――変わった。

 いや、物理的に彼の瞳の色が変わったわけではない。彼のまとっていた雰囲気が変わったのだ。


「……ジーク」


 思わず声をかけると、ジークが私を見て身体を起こした。

 そして私から離れるとキョロキョロと周りを見渡した。


「お前たち……またここにいたのか……」


 私も起き上がって、彼を見ていると彼もハロルドの絵を見て声もなく固まった。

 そしてしばらく絵に魅入った後に私を見た。


「絵……完成したのか……」


 私はベッドに座ったまま答えた。


「はい、完成したとおっしゃっていました」


 ジークは絵をじっと見ると口角を上げた。


「これは間違いなく、あいつの最高傑作だな……」


 そして機嫌良さそうに私を見ると、ニヤリと笑った。


「はは、見ろ。服を変えたら、シーツを巻かれずに済んだだろう?」


 こっちは、ジークに服を買ってもらったせいで、色々なことがあったのだが、ジークはそんなことも知らずに上機嫌だ。そして窓の外を見た。


「ん? 満月……もしかして、入れ替わってまだ1日も経っていないのか?」


 ジークの言葉に私は頷いた。


「はい。まだ1日は経っていません」


 ジークは眉を寄せた。


「こんなに短い期間で入れ替わったのは……初めてだ……あいつに何かあったのか……」


 何かあったのか?

 そういえば、何があったのだろう?


 私としても突然、入れ替わった印象だったのできっかけが思い出せなかった。

 それ以上に多くのことがあったので、正直、朝のことがすでに思い出せない。

 ジークはしばらく考えた後に私を見た。


「食事はまだだろう? 俺はどうやら腹が減っているようだ」


 私は立ち上がって答えた。


「はい。まだ夕食を召し上がっていません」

「もしかして、ずっと絵のモデルをさせられていたのか? 悪かったな。お前も腹が減っただろう。食事を頼む」

「かしこまりました」


 私が返事をすると、ジークはアトリエを出て行った。

 私はさっきまでハロルドが持っていたシーツと、私の脱いだ下着と、新しい下着と寝衣と明日着るための紺色の服とエプロンをさっきまで身体に巻き付けていたシーツに包んで簡易バッグにして肩にかけた。

 そして私はアトリエを出る時、再びハロルドの絵を見た。


(ハロルド……おやすみなさい)


 なんとなく、そう声をかけると食事の支度をするためにキッチンに向かった。









「ごちそうさまでした」


 ジークに食事を届けた後に、一人で食事を済ませた。

 そして食器の片付けを終えて、私は声を上げた。


「あ!! 洗濯物!! 取り込むの忘れてた!!」


 私は急いで外に出ると、洗濯物を取り込んでカゴに入れた。

 すると、扉が開いて顔を上げるとジークが立っていた。


「どうされたのですか?」


 私がジークに声をかけると、ジークが困ったように言った。


「月を見に来たんだ……満月の日にあいつが表に出るなんて……初めてだから……欠けた月なのかと思ってな」


――満月を見るのは……久しぶりです。この月は、どうやら私を嫌っているようなので…… 


 ハロルドもジークと同じようなことを言っていた。

 きっと本当に満月の日にハロルドが表に出ることはないのだろう。

 もし、今日、ハロルドが表に出て来ていなかったら……私は自分の気持ちを受け入れることが出来ていただろうかと不安になって、首を振った。

 そして私はジークを見つめて尋ねた。


「ジーク、それはどういう意味ですか? のことを教えてください」


 ジークはじっと私を見つめると、息を吐いた。


「興味本位なら、止めておけ。お前はいずれここを出るのだろう? あまり深く俺たちと関わるな」


 そう言われて、先ほどの覚悟がやはり本物だったのだ、と確信した。

 私は真っすぐにジークを見据えて言った。


「私はハロルドが好きです。離れるつもりはありません」


 ジークが無表情に私を見ていた。


「あいつを……好きね……ははは、あははは!!」


 そしてジークは狂ったように声を上げて笑った。

 私はそんな彼から視線を逸らすことなく声を荒げることもなく、ただ彼の言葉を待った。

 なぜなら彼は笑っているのに……泣いているようだったから……

 そして、ジークは月に視線を移して月を見上げた。


「そんな甘い戯言を口にできるのも今のうちだ。あいつの優しい面だけ見て……流されるな」


 私はジークを見つめて答えた。


「流されているつもりはありません」


 満月の下、風が私たちの間を通り過ぎて行った。

 私たちはしばらくお互いを見つめたまま、時間が流れた。

 すると、ジークが自嘲気味に言った。


「あいつがこれ以上お前にのめり込んで、狂ってしまうのも困るからな……教えてやる――あいつの闇を……」

  

 ジークはそう言うと、月を見たまま言葉を続けた。


「俺が生まれたのは……今日のような満月の夜だった」

「……え?」


 目を逸らさずに彼を見つめると、彼がまるで月に戻って行くのではないかというような表情で囁くように言った。


「ハロルドが11歳の時だ。今、お前のいるあの部屋。あそこで……俺は生まれた」


 そして私を見ると、瞳に何も映さずに淡々と告げた。


「あの場所は……ハロルドが実の母親に閉じ込められていた場所だ」


 私は息を呑んだ。

 ハロルドが実の母親に閉じ込められていたなんて……


「ついて来い。これを見てもお前は逃げずにあいつの側にいるなんて言えるのか……試してやる」


 ジークはそう言うと、歩き出した。

 私はどうするべきか悩んで、ゆっくりと足を動かした。

 ハロルドに過去があることは覚悟していたはずだ。それでも彼と一緒にいることを選んだのだ。

 ここで私が足を止めるべきではない。

 ジークが真っ暗な瞳を投げかけながら言った。


「どうした? やはり真実を知るのは怖いか?」


 私はゴクリと息を呑むと、歩く速度を上げてジークの後について行ったのだった。






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