EP19 優しい未来の証明

 秋。


 午前のラボは、いつもより静かだった。

 音が減ったわけではない。キーボードの打鍵も、ファンの回転音も、普段と変わらずそこにある。

 ただ、人の動きだけが少し抑えられている。


 誰も無駄な声を出さない。

 確認は短く、必要な言葉だけがやり取りされる。


 紙コップを置く音が、やけに大きく聞こえた。

 誰かが息を吸う音も、椅子がきしむ音も、普段より輪郭を持って届く。


 笑えば流れがズレる。

 そんな感覚が、言葉にされる前から共有されていた。


 それが、この空気の正体だった。


 リクはモニターを見つめたまま、指先だけを動かしている。

 普段より速い。でも焦ってはいない。

 決められた工程を、順番通りに踏んでいるだけの速度。


 速いのに、手首は硬くない。

 慣れではなく、覚悟の速度だった。


「……この条件でも、波形は崩れてません」


 報告の声は低い。

 喜びを含まない。だが、淡々としすぎてもいない。


 ジンは席を立ち、リクの背後に回る。

 画面に並ぶ数値とグラフ。どれも、少しずつ違う。

 完璧に揃っていない。


 それが、現実だった。


 人の体は理想通りに反応しない。

 だからこそ、この程度のばらつきは「耐えている」と言える。


「副作用域、想定内です」


 別の研究員が続ける。

 言い切らない。断定もしない。

 ここで声を強めると、流れが変わると全員が知っている。


「サンプル増やしても、追従します」


「追従……というより、落ち着いてますね」


 リクが言葉を選ぶ。

 落ち着いている。

 その言い換えに、誰も突っ込まなかった。


 ジンは頷かない。

 頷けば、一区切りに見える。

 一区切りは、油断を呼ぶ。


「病院側の実証データは」


 短い問い。


 研究員が別の画面を表示する。

 時系列。生活環境下での反応。

 数値は派手じゃない。だが、崩れていない。


「一致しています。急激な変動は出ていません」


 急激じゃない。

 その一言で、この結果の意味が揃う。


 効きすぎない。

 生活を邪魔しない。


 ジンは画面の端を見る。

 管理番号の横に、小さな文字列がある。


 REWIND


 ラベル。そう呼べば軽い。

 だが、軽く呼べる人間は、この部屋にいない。


 巻き戻す、という言葉は希望じゃない。

 責任の形だ。


 ここでの一歩は、世界のどこかの「遅れ」を減らす。

 その程度の効き目が、いちばん重い。


「実証に移る」


 声は低く、平坦だった。


 誰も反応しない。

 驚きも、歓声もない。


 それでよかった。


 机の上に新しい資料が重ねられる。

 研究用のタグが外され、運用フォーマットが開かれる。

 作業の種類が、静かに切り替わっていく。


 リクが息を吸う音がした。

 喉の奥で、「やった」という言葉が止まる。


「……完成、じゃないですよね」


 確認というより、自分に言い聞かせる声。


 口角が上がりかけて、戻る。

 上げたら壊れる気がして、戻す。


「違う」


 ジンは即答する。


「だが、止める理由もない」


 リクは一瞬だけ目を伏せる。

 落胆じゃない。

 覚悟を置く場所を探すときの反応だ。


 手のひらに、うっすら汗が滲む。

 キーボードが、ほんの少しだけ滑る。


「実証って、思ったより……静かですね」


「騒ぐ段階じゃない」


 ジンは画面から目を離さない。


「騒ぐのは、壊れたときだ」


 誰も否定しない。

 この部屋にいる全員が、それを一度は見てきている。


 静かなまま、作業は続く。

 チェック項目が一つずつ消えていく。

 進んでいるのに、前に出た感じがしない。


 リクはキーボードを打ちながら、もう一度画面の端を見る。

 理由は分からない。

 ただ、喉の奥が少しだけ詰まる。


 ジンはそれに気づいても、何も言わない。


 ラボの空気は変わらないまま、

 世界の因果だけが、確実に一段進んでいた。


 誰も、それを成功とは呼ばない。


 ただ――

 次の工程へ、当たり前のように進む。


 それが、このチームの現在だった。



 日曜の午後は、街の音が少し丸くなる。

 平日の角張った足音が消えて、代わりに「暇」と「疲れ」が同じ歩幅で流れていく時間帯だ。


 リクはコンビニ袋を片手にぶら下げて歩いていた。

 袋の中には、溶けかけのアイスが2つ。買う予定のなかった小袋のスナックが1つ。

 そして、なぜか紙パックの麦茶まで入っている。


「……おかしいな。アイスだけ買う予定だったのに」


「リクは、だいたいそう」


 サラが前を向いたまま言う。声は淡い。


「だって、レジ横に置いてあったら買うでしょ」


「買うのはリクだけ」


「え、ジンさんも買わないんですか。そういうの」


 ジンは返事をしなかった。

 返事をしないまま、歩調だけを合わせる。


 リクが袋を持ち替えた。

 アイスが傾かないように、角度を少しだけ直す。

 歩幅が、自然に小さくなる。


 ジンは、その動きを一瞬だけ見た。

 それ以上は、追わない。


「……で、どこ行くんでしたっけ」


「アイス、溶ける」


 サラの声は短い。


「公園?」


「うん」


 歩道の角を曲がると、公園の入口が見えた。

 遊具の色は少し褪せていて、すべり台の金属が午後の光を鈍く返している。

 ブランコの鎖が、空のまま揺れていた。


「うわ、子ども多っ」


「日曜だし」


「ですよね」


 リクが、当たり前みたいに頷く。


 そのまま、足が中へ向く。



 公園の中は、音が重なっていた。


 砂を掘る音。

 ボールが跳ねる音。

 笑い声と泣き声が、同じ高さで混ざる。


 ベンチを探して視線を動かしたとき、リクが先に止まった。


「あ」


 すべり台の列。

 その中に、小さな背中がある。


 リオ。


 順番待ちの間、体を揺らしている。

 待つこと自体が退屈だと言わんばかりに。


 その後ろに、母親が立っていた。

 ユアだ。


 姿勢は崩れていない。

 目線は外さない。


 ただ、表情だけが少し遅れている。


 サラが、息を吸う。


 ごく短く。


 リオが振り返った。


「あ!」


 声が跳ねる。

 指が、まっすぐ伸びる。


「このまえのひと!」


「そう、それ俺」


 リクが笑って、反射で手を振る。


「こんにちはー!」


 ユアが、少し遅れて会釈した。


「この前は……ありがとうございました」


「いえいえ。こっちこそ」


 サラも会釈する。

 距離は、前と同じまま。


 リオは小走りで近づいてきて、途中で止まる。

 一度だけ、後ろを振り返る。


 ユアが、静かに頷く。


 それを見て、リオは笑った。


「おにいちゃん、おなまえは?」


「リクだよ。お名前は?」


「リオだよ!」


 驚くほどスムーズな会話。


「リクおにいちゃん、きょうもいるの?」


「いるよ。というか、今ここで会ったでしょ」


「じゃあ、あそべる?」


「遊べるけど……すべり台とかやったら骨折するかも」


「しない!」


 即答。


「……じゃあ、1回だけな」


「やった!」


 リオが拳を握る。

 リクは、そのまま列へ押される。


 階段を上りながら、リクが小さく言った。


「……これ、意外と高いね」


「こわくない!」


「いや、俺が怖い」


「リク、よわい!」


「弱くない。ただ慎重!」


「しんちょう?」


「転ぶ前に考えるってこと」


「リオは、ころぶまえにわらう!」


「それは天才のやつ」


 声が重なる。

 周囲の音に溶ける。


 ユアの目だけが、そこに留まっていた。


 笑っている。

 けれど、どこか一拍、遅れている。


 サラが、ユアの隣に立つ。

 距離は近づけない。並ぶだけ。


「……元気ですね」


 ユアが言う。


「ええ」


 サラは短く答え、それから一度だけ、視線をユアに向けた。


「この前は、バタバタしてて。ちゃんと挨拶できてなかったですね」


 ユアが、少し驚いたように瞬きをする。


「……あ、いえ」


「私、サラっていいます。看護師です」


 言い切りすぎない声。

 仕事を名乗るときの、慣れた距離感。


「あ、ユアです。」


 気づかない程度のほんの一瞬、遅れた返答。


「彼はジン。研究のほうをやってます」


 ユアの視線が、ジンに移る。


「……研究?」


「医療系です」


 ジンが短く補足する。


「サラの勤めている◯◯病院とも、共同で」


 その言葉に、ユアの表情がわずかに変わった。


「あ……私、そこに通ってます」


 ほんの小さな告白。

 言ってから、少しだけ様子を見る。


「そうなんですね」


 サラは、すぐに踏み込まない。


「もし、言いにくくなかったら…なんですけど」


 ユアは一度、すべり台のほうを見る。

 リオが、リクに何か言って、笑っている。


「……最近、気持ちが急に、わからなくなる?ことがあって。……なんて言えばいいのか」


 言葉を選ぶ間。


 声は低い。

 振り絞ったように、落とした一言。


 サラは、すぐに反応しない。


「それ、ちゃんと分かるのがすごいです」


 評価ではない。

 事実を、そのまま受け取る。


 ユアの肩が、ほんの少し下がる。


 ジンが、静かに口を開いた。


「その症状に近いケースを、今、少しずつ研究しています」


 淡い声。


「ちょうど、実証段階に入ったところです」


 ユアが、ゆっくりと瞬きをする。


「……研究、ですか」


「はい。抑制の方向です」


 説明は最低限。


「効果は確認されてきていますが、無理に、今決めなくていいです」


 サラが自然に続ける。


「病院にきた際、先生の診断を受けて考えてみてください」


 ユアは答えず、すべり台の下を見る。


「リク!もう1回!」


「え、さっき1回って言っただろ!」


「いまのは、れんしゅう!」


「練習ってなんだよ……」


 笑い声。


 ユアの口角が、少し上がる。

 今回は、すぐには戻らない。


「結論は急がなくていいですから」


 サラが言う。


 短く、逃げ道を残す言い方。


 ユアは、ゆっくり頷いた。


「……考えてみます」


 リオが走って戻ってくる。


「ママ!みて!リク、ほんとにこわかった!」


「こわくない!」


「こわかった!」


 笑い声が、続く。


 ジンは、何も言わずにそれを見ていた。



 夕方の空は、昼の名残を引きずったまま、ゆっくり色を落としていた。

 オレンジと青の境目が曖昧で、どちらとも言えない時間帯。


 ユアは、リオの手を引いて歩いていた。

 歩幅は少し小さめ。リオに合わせている、というより、最近はそれが自然になっていた。


「ママ、きょうね、せんせいにね、ほめられた」


「なにを?」


「えーっと……ちゃんとならべたって」


「ちゃんと並べたんだ」


「うん。リオ、がんばった」


 リオは自分の足元を見ながら言う。

 誇らしさはあるけれど、見せつける感じはない。

 “できたこと”を、そのまま事実として置いているだけだ。


 ユアは小さく笑った。

 声を出すほどでもない、喉の奥だけが緩む笑い。


 ここ数日、こういう瞬間が増えていることに、ユア自身が気づいていた。

 気づいてはいるけれど、理由を探すほどではない。


 夕方の道は、帰宅する人の流れが緩やかだった。

 自転車のベル、遠くの踏切の音、どこかの家から漏れる夕飯の匂い。

 全部が、少しだけ遅れて耳に届く。


「ねえ、ママ」


「なに?」


「ママ、さいきんね」


 リオは一度立ち止まって、ユアを見上げた。

 言葉を選んでいるというより、頭に浮かんだ順に出しているだけの間。


「なんかね……かわいくなったのー!」


 ユアは、足を止めた。


「……かわいく?」


「うん!」


 即答だった。

 理由を説明する気配はない。説明しようとも思っていない。


「えっと……それ、どういう意味?」


「わかんない!」


 リオは笑う。

 笑ってから、ユアの手をぎゅっと握った。


「でもね、まえよりね、いっしょにいるとね、あったかい」


 ユアは、すぐには返事をしなかった。

 返事をしないまま、空を一度だけ見上げる。


 理由は、分からない。

 ただ、喉の奥が少しだけ詰まる。


 ユアはそれに気づいても、何も言わない。

 泣くほどじゃない。

 でも、無かった感覚でもない。


「……そっか」


 それだけ言って、歩き出す。


 公園の横を通り過ぎる。

 ブランコの鎖が、風もないのに微かに揺れていた。

 子どもたちの声は、さっきよりも少ない。


「すべりだい、いかないの?」


「今日は、帰ろうか」


「えー」


「また今度ね」


「……うん」


 リオはすぐに切り替えた。

 納得というより、受け入れに近い反応。


 ユアは、その横顔を見て、ふと思う。


(……最近)


 言葉にしようとして、やめた。

 考えるほどのことじゃない。


 ただ、あの“何も感じない”感じが、確かに薄れてきている。

 消えたわけじゃない。

 でも、前ほど近くない。


 それを、良いとも悪いとも判断しない。

 判断する前に、生活が先に進んでいる。


 家に着くと、リオは靴を脱ぎながら言った。


「ママ、きょうのごはん、なに?」


「なにがいい?」


「たまご!」


「卵ね」


「ふわふわのやつ!」


「オムライスだね」


 キッチンに立つ。

 冷蔵庫を開ける。

 卵は、ちゃんと残っている。


 ユアはエプロンをつけながら、深く息を吸った。

 吸って、吐く。


 その動作が、前よりも自然になっていることに、少し遅れて気づく。



 数駅離れた場所で、ジンは一人、歩いていた。


 研究施設を出てから、特に寄り道もせず、ただ歩く。

 観測は、もう終わっている。


 ユアの改善。

 数値ではなく、生活の反応として。


 笑顔が遅れず、

 戻りが早く、

 温度が残る。


(……救われつつある)


 そう判断する。

 感情は動かない。

 確認作業として、静かに受け取る。


 劇的じゃない。

 だが、確かだ。


 遅れが減る。

 呼吸が戻る。

 生活が先に進む。


 それだけで、未来は証明される。


 足元の影が、少しだけ伸びていた。

 まだ薄い。

 だが、確実に、前へ向かっている。

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