EP12 それでも、今日という日の続きへ
2035年4月7日
ジンが過去に戻されてから5年が経った。
朝の光は、きれいすぎるくらいだった。
高いビルの窓ガラスに、雲ひとつない空がそのまま貼りついている。
通りを行き交う人たちは、コートも厚手のマフラーももう手放していて、軽い上着だけで足早に歩いていた。
信号が青に変わるたび、人の群れが一斉に動き出す。
それぞれがそれぞれの目的地に向かっているはずなのに、少しだけ歩幅が合わない。
横一列に並んでいるはずなのに、ほんの数センチずつ前後にずれている。
そんな、目を凝らさなければ気づかないようなばらつきが、街全体にゆっくり広がっていた。
電車を降り、改札を抜ける。
ビル街へ続く階段を上ると、風が一度だけ頬を撫でていった。
わずかに乾いた空気。
その向こう側で、排気ガスとコーヒーの匂いが混ざり合っている。
誰もがスマホを見ているわけではない。
誰もがうつむいて歩いているわけでもない。
笑い声もあるし、ため息もある。
会話を楽しんでいるように見える人もいれば、仕事の段取りを頭の中で並べている人もいる。
見た目だけなら、「普通の朝」だった。
ただ。
すれ違う人たちの目の奥に、ほんの小さなノイズが貼りついているように見える瞬間がある。
何かを考えようとしてやめた痕跡。
何かを感じそうになって、無意識に切り離したような空白。
それは、目を合わせた瞬間には分からない。
すれ違いざま、数拍遅れて胸に残る違和感としてだけ、あとからじわりと浮かび上がる。
それでも、世界は崩れてはいない。
4年前に開始された研究と、その先に続いた膨大な試行錯誤の果てに、生まれた薬がある。
飲めばすべてが救われるわけではないが、底に落ちる前に、手前で踏みとどまらせることができる薬。
その薬は、必要な人には届くようになった。
「少し疲れやすい」「感情が鈍い気がする」
そんな曖昧な訴えにも、医師たちは前より慎重に耳を傾ける。
大きな崩れは、起きていない。
街の色は、少なくとも目に見える範囲では、穏やかさを保っている。
ただ、どこかでかすかに軋むような音がしている。
誰も気づかないふりをしているだけで、世界のどこかのネジは、確かに少しずつ摩耗していた。
それでも、人は今日も仕事に向かう。
ビルの谷間を抜けて進むと、ガラス張りの研究施設が見えてきた。
入口の自動ドアの横には、見慣れたロゴマーク。
そこが、ジンとリクの職場だった。
——
建物に入ると、ひんやりとした空気が肌に触れた。
受付を抜け、セキュリティゲートを通る。
ジンがカードをかざすと、軽い電子音とともにゲートが開いた。
「おはようございます」
白衣姿の職員が、次々と挨拶を投げてくる。
ジンは、そのひとつひとつに短く頷きながら通り過ぎた。
階段を上り、いつものフロアへ向かう。
ガラス窓の向こうには、いくつかの部屋が区切られ、モニターの光がぼんやりと浮かんでいた。
机の上には、データの束と、最新の解析結果。
壁際には、フェーズ抑制薬の試験経過を示すグラフが並んでいる。
ここ数年で、ジンの肩書は少し変わった。
責任の範囲が広がり、会議の数も増えた。
だが、彼自身の生活は、驚くほど単調なままだった。
朝来て、データを見て、仮説を立てて、AIに投げて、結果を確認する。
それを繰り返すうちに、いつの間にか、4年分の時間が積み重なっていた。
席に着き、PCを立ち上げる。
ローディングのマークが回る間、無意識に視線が窓の外へ向かった。
空は、相変わらずきれいだった。
「ジンさん」
背後から声がした。
振り返ると、リクが立っていた。
白衣のポケットにはボールペンが数本突っ込まれ、首からはIDカードが下がっている。
その顔には、以前より少しだけ、余裕のようなものが刻まれていた。
「おはようございます」
「ああ」
「今日、会議の前に時間、大丈夫ですか」
「どの話だ」
「あの……抑制薬のフォローアップ調査のやつです。昨日、先生たちが“もう少し現場の声が欲しい”って言ってたので」
「それなら、午前のうちに片付ける」
ジンがそう答えると、リクの表情が少しだけ和らいだ。
「助かります。俺だけだと、どうしても“なんとなく”って感覚でしか説明できないんで」
「その“なんとなく”を数値にするのが俺の仕事だ」
「便利ですね、ジンさん」
「便利なだけの存在なら、もっとマシな使い方があるだろう」
淡々と返す言葉に、リクは小さく笑った。
会話の温度は、以前とあまり変わらない。
だが、その奥に流れているものは、4年前とはまるで違っていた。
4年の間に、何度もぶつかり、何度も助けられた。
フェーズ抑制薬の開発がうまく進まない時期もあった。
患者の数値が思うように改善しない夜もあった。
そんなとき、リクは折れそうになり、ジンは淡々と現実だけを見ていた。
それでも、2人とも、途中でどこかへ投げ出して消えてしまうことはなかった。
「今日は、定時で終われそうですか」
リクが、さりげない調子で尋ねる。
「終わらせる」
即答だった。
「じゃあ、スケジュール、合わせておきます」
「ああ」
どちらも、それ以上は言わなかった。
それでも、2人の間にはすでに共有されているものがあった。
年に2回一緒に向かう場所。
今日も、そこへ行くのだということを、互いに言葉にしなくても分かっていた。
——
昼を少し過ぎた時間帯、休憩スペースからリクは自分のデスクに戻ってきた。
デスクには、写真立てがひとつ。
リクは、紙コップのコーヒーを片手に写真を見つめる。
写真の中には、リクとサラの満面の笑みが写っている。
プロポーズをした時、2人の秘密基地で撮った写真。
サラの撮った写真はたくさんあるが、
リクの中で、この時のサラの笑顔は1番のお気に入りだった。
写真の中では、冬の透き通った空気の中、空には薄く雲が浮かんでいた。
サラの髪が少しだけ乱れている。
そんな風を感じるサラの笑顔の写真。
写真の位置が、わずかに斜めになっていた。
リクはコーヒーをテーブルに置き、写真立てに手を伸ばす。
ほんの少しだけ向きを直し、指先で枠の埃を払った。
「……愛してるよ」
声に出したわけではない。
喉の奥で、言葉になりかけた何かが溶けていった。
痛みは、あの日の形では残っていない。
最初の数ヶ月は、何をしていても急に息ができなくなるような瞬間があった。
仕事中にふと手が止まり、名前を呼びそうになることもあった。
時間が経てば、何かがすべてきれいに消えてくれるわけではない。
それでも、痛みの輪郭は少しずつ変わっていく。
尖っていた部分が丸くなり、刺さっていたところから少しだけ位置をずらし、体のどこかに静かに沈んでいく。
サラを思い出しても、もう、立ち上がれないほどの波にはならない。
代わりに、小さな呼吸の乱れと、胸の奥のかすかな熱だけが残る。
それでも、今日はいつもより少しだけ、その温度が強かった。
「リク」
背後から名前を呼ばれる。
振り向くと、ジンが立っていた。
手にはタブレットと、何枚かの資料。
「さっきのフォローアップのデータだ。追加で出てきた分」
「あ、ありがとうございます」
受け取った資料をデスクに置き、リクは紙コップを手に取った。
「午後の会議、資料の確認、もう済ませました?」
「必要なところは見た」
「さすがですね」
「さすがかどうかは知らない」
短いやり取りのあとで、ジンの視線が写真立てに向いた。
何かを言うわけではない。
ただ、数秒だけそこに留まり、すぐに戻る。
「……今日は、定時で出る」
「はい」
「そのつもりで、会議の時間も調整した」
それは、言い訳にも、善意のアピールにも聞こえなかった。
ただの事実として、そこに置かれた。
「助かります」
リクはそれだけ答えた。
それ以上言葉を重ねると、何かが崩れてしまいそうだった。
約4年半。
リクはサラの死を、“何かのせい”にはしなかった。
何かの“せい”にしてしまえば、きっと楽だった。
でも一度そうしてしまえば、その後に続く選択を、全部誰かのせいにしてしまいそうで。
だから代わりに、目の前の仕事にしがみついた。
データを整理し、患者の言葉を読み、ジンの無茶な要求に食らいつく。
何度も心が折れかけた。
それでも、完全には折れずに済んだのは――
(ジンさんが、いたからだな)
口に出すことはない。
この感覚をうまく説明できる自信もない。
ただ、あの日、自分の世界が音を立てて落ちていく中で、淡々と「やるべきこと」を示し続ける人物が隣にいた。
そのことだけは、忘れようとしても忘れられなかった。
「行きますか」
リクが言うと、ジンは軽く頷いた。
「仕事を片付けてからだ」
「ですね」
紙コップのコーヒーを飲み干し、ゴミ箱に捨てる。
写真立てにもう一度だけ視線を送り、リクは会議室へと足を運んだ。
——
夕方の空は、昼間よりわずかに色を失っていた。
研究施設の駐車場には、社員たちがぽつりぽつりと散っていく姿があった。
ジンの車の助手席に、リクが静かに乗り込む。
「すみません、運転お願いして」
「問題ない」
短い会話。
シートベルトの音が、車内に小さく響く。
走り出した車は、まだ明るさの残る幹線道路へ滑り込んだ。
窓の外では、日常の色がいつもどおり流れていく。
コンビニの看板。
歩道を行き交う人々。
夕飯を買いに寄ったのだろう、袋を提げて駐車場へ戻る家族。
その全部が、変わらない世界の風景だった。
リクは膝の上の紙袋にそっと手を添える。
中には、ひとつのガラス瓶。
特別な銘柄でもない。
ただ、ラベルの色と香りの説明が、ふとサラを思い出させただけだった。
目的地が近づくにつれ、街灯の数が減る。
車は坂道を上り、静かな空気へと入っていった。
車を停めると、外の空気がひんやりと頬を撫でた。
舗装の途切れた細い道を、2人はゆっくり歩く。
もう、迷うことのない道だった。
サラの墓は、木漏れ日の落ちる丘の頂上近く。
小さなスペースにある。
リクは足を止め、刻まれた文字を見つめた。
『Sara 2030/11/07』
ジンは静かに一礼する。
その仕草には、説明できない重さがあった。
リクも同じように頭を下げる。
風がひとつ、草をゆらして通り過ぎた。
リクは紙袋を開け、ボトルを取り出す。
キャップを外し、カップに少しだけ注ぐ。
ひとつは石の前へ。
ひとつは自分の手へ。
「今日は、これにしました」
ぽつりと落としたその声は、誰に向けた言葉か分からない。
サラへか。
隣のジンへか。
あるいは、あの日の自分へか。
ジンは自分のカップに手を伸ばさない。
ただ、リクが注いだ酒の香りを、ほんの短く確かめる。
それだけだった。
飲まない。
それを言葉にする必要もなかった。
リクは静かにカップを掲げる。
「……サラ、ありがとうな」
声は震えていない。
強くも弱くもない。
ただ、胸の奥底から滲み出た“事実の言葉”だった。
ジンは黙ってうなずいた。
沈黙は拒絶ではなく、共有だった。
リクだけが口に含む。
ジンはそれをただ見守る。
夕方の光が、ゆっくりと夜に溶け始めていた。
ジンの視界には、墓の石が淡く照らされていた。
そこに宿る5年分の重さ──
それは、言葉にしないほうが届く種類の重さだった。
サラと過ごした日々。
失ったあとの空白。
研究に費やした時間。
世界をつなぎとめた努力。
どれも、ここへ戻ってくる理由になった。
「ジンさん」
静かな呼びかけに、ジンは視線をずらす。
「なんだ」
「……ここまで来れたの、ジンさんのおかげですよ」
「そうか」
「そうですよ。あのとき、“仕事に戻れ”って言ってくれなかったら……俺、止まってたかもしれない」
「止まる自由もあった」
「でも、俺には……選べなかったと思います」
風がまた吹き、草を揺らす。
ジンは墓石から空へ視線を移した。
夕焼けと夜の境界が、静かに溶け合っている。
「止まらなかったのは、お前だ」
「え?」
「選んだのは、お前だ。
俺が何を言ったとしても、歩いたのはお前だ」
その言葉は、不器用な励ましではなく、ただの事実だった。
けれど、その事実が、リクの胸の奥をそっと支えた。
しばらく、風だけの時間が流れる。
リクが深く息を吐いた。
「……帰りますか」
ここから帰る場所は、もう“サラの待つ家”ではない。
けれど、空っぽではなかった。
仕事があり、仲間がいて──
そして、ジンがいた。
「ああ」
短い返事で、2人は立ち上がる。
石にもう一度だけ頭を下げ、空になったカップを片付ける。
帰り道の空は、ほとんど夜だった。
街灯が増え、遠くに赤いテールランプの帯が見える。
世界は完全には救われていない。
ノイズは今もどこかに残っている。
それでも──
“手前で救える人”は、5年前より確かに増えた。
失ったものは戻らない。
それでも、人は前に進む。
静かな夜の中を、2つの影が並んで歩いていく。
今日という日の続きへ。
そして、その先に続いていく、まだ見えない日々へ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます