EP10 どこかで途切れた、静かな夜

 翌日の夜。


 サラはスマホを耳に当てながら、部屋の片付けをしていた。


 昨夜、ユアとリオと公園での別れ際「また遊びましょうね」と笑った。

 そのほんの数時間後に事故が起きたなんて知る余地もなく。


 数コールが鳴ったあと、カチッと音がして通話がつながる。


「お電話代わりました、○○警察署ですが」


 空気が一気に冷えた気がした。


「あの……ユアさんのスマホですよね?昨日、公園で……」


「ご家族の方ではありませんよね。昨日ユアさんは交通事故で……」


 事務的な言い回しだった。

 けれど、その“事務的”こそが、逆に現実を濁りなく突きつけてくる。


 何を言われたのか、全部理解できたはずなのに、音が途中から急に遠のいた。

 テレビから聞こえる人の声も、洗濯機の稼働音でさえ、膜の向こうへ押しやられる。


「……サラ?」


 気配を察したのか、リクが駆け寄ってくる。


「え、どうしたの?」


 サラはスマホを耳から離せず、ただ目だけでリクを見る。


「……事故だって。昨日の、ユアさん……」


「え…なん…て?」


 言葉が継げなかった。

 リクは胸の奥で、何かがざらっと削れたような感覚がした。


 サラはすぐには言葉を挟まなかった。

 ただ、リクの隣に立ち、腕を組んだまま同じ方向を見つめる。


 その横顔に、リクは少し救われた。

 理由は分からない。ただ、その沈黙がありがたかった。


「なんで……なんで、昨日あんなに元気だったのに」


 言葉はそこまでだった。

 それ以上、語彙が見つからない。


 そんなに親しいわけじゃない。

 少し話した程度で、家族でも友人でもない。


 なのに、胸の真ん中にぽっかり穴が空いたような感覚がある。


(……なんでこんなに、ざわつくんだろ)

(……リオちゃんは、大丈夫なのか?)


 サラは視線を落とし、小さく息を吸った。

 その一瞬、彼女の視界が“軽く二重に揺れた”ことに本人は気づいていない。


「リク、今日はもう……無理に頑張らなくていいよ」


「……うん」


 その言葉が落ちた瞬間。

 ラボのモニターに、テロップが一瞬だけ映った。


 《軽度認知異常:件数微増(AI診断では正常範囲)》


 淡々と、世界のどこかで、

 フェーズの“カウント”が静かに進み始めていた。



 数日後。


 仕事をこなすリクの心は、どこか遠いところに置いてきたようだった。


「……このAIログ、感情指数が急に下がってるな」


 目の前に並ぶデータを追っていると、

 サラから聞いた“ユアの症状”と似たキーワードが複数出てきた。


《最近、気持ちが遠い》

《イライラする》

《自分が自分じゃない》


 胸の奥がざわりとした。

 だが次の瞬間には、それを“仕事のデータ”として処理しようとする自分がいた。


「……違う違う、仕事だ。これは、ただのログだ」


(気にする必要はない。俺が感じてることじゃない。)


 そう言い聞かせるように、深く息をついた。


 そのとき、隣の席の椅子が引かれる音がして、ジンが現れた。

 最近は、ジンがリクの仕事に関わるようになった。

 なんでも、新しい薬の開発に向けて、リクの部署のデータが必要らしい。


「おはようございます」


 ジンの瞳は、いつもと変わらない強さを感じる。


「リク、大丈夫か」


「あ……はい。大丈夫です」


 大丈夫じゃないのに、そう返してしまう自分が嫌だった。


 ジンは淡々と机に資料を置いた。


「仕事に支障が出るなら言え。調整する」


 それは気遣いにも聞こえたし、

 同時に“支障をきたすなよ”という合理の響きにも感じた。


 ジンはモニターに映るAIログに目を走らせた。


「……また増えてるな。この手の認知異常」


「増えてる、んですか?」


「ああ。基準値とは誤差範囲だが、グラフの波形がざらついている」


 ざらつき。

 それが何を意味するのか、リクには分からなかった。


 次の瞬間――

 ジンがモニター上の計算演算を一気に走らせた。


 画面のグラフが高速で補正され、たった一瞬だけ、赤いノイズが“砂粒のように”走った。


「……今、なんか」


「ノイズだ。世界ログの粗れだろう」


 ジンは表情を変えない。


(世界……ログ?)


 言葉の意味は分からなかったが、ジンはもう次の計算に入っていた。


「リク。昼、行くぞ」


「あ、はい!」


 返事がワンテンポ遅れた。

 声が上ずった自覚がある。


 仕事に戻ったはずなのに、心だけが取り残されたままだった。


(俺、なんか……おかしいのかな)


 そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ冷たくなった。


 だがその“冷たさ”もまた、数秒後には薄れていった。


 自分が何を感じているのか。

 どこがどう狂い始めているのか。


 リク自身は、まだ気づけないままだった。


——


 ラボのフロアに、終業間際の空気がゆっくりと沈んでいく。


 コンピューターのファンの音と、キーボードの打鍵音。

 ホワイトボードに残された数式。

 窓の外では、夕焼けがビルのガラスに反射していた。


 ユアの事故の件は、正式な報告として共有されたわけではない。

 でも、ラボの誰もが、なんとなく「何かあった」ことだけは知っているような雰囲気があった。


「……さて、と」


 リクは、最後のログの整理を終えて、軽く伸びをした。

 画面には、今日処理したデータの一覧が並んでいる。


(他人、なんだよな)


 椅子にもたれかかりながら、心の中でそう繰り返す。


 そこまで親しかったわけじゃない。

 たまたま飲み物がこぼれて、たまたま公園で会って、たまたま一緒に笑って。

 その程度の距離感だったはずだ。


(それにしては、胸やけみたいに残るな)


 自分で自分にツッコミを入れたくなる。

 仕事中は、なんとか波の中に紛れ込ませていたそのざわつきが、定時を知らせるチャイムと一緒に、ふわりと浮かび上がってきた。


「お疲れさまでしたー」


 何人かが先に帰っていく。

 書類をまとめる音、椅子を引く音が、少しずつフロアから減っていく。


 ふと、斜め前の席を見る。

 ジンは相変わらずモニターに視線を固定したまま、何かのグラフを眺めていた。


 いつも通り。

 そう見える。


 だけど、画面に映る波形は、リクの目にはただの線にしか見えないのに、ジンの目には“何か”の形として入っているのだろうと分かる。


「ジンさん」


 気づいたら、声をかけていた。


「ん?」


 ジンが、マウスから手を離してこちらを見る。


「今日って、もう終わりですよね。残り、あります?」


「ひと段落はついている」


 いつもの淡々とした口調。

 その「ひと段落」が、どれくらいの山を越えた状態なのか、リクには分からない。


「……こういう日こそ、飲みに行きません?」


 冗談半分、本気半分。

 口が先に動いた。


「仕事終わりのビールは、統計上メンタルにいいらしいですよ」


「統計を持ち出して酒に誘うやつは、初めて見た」


 ジンの口元が、ほんのわずかだけ緩んだ。


「それ、OKってことでいいですか?」


「……店は」


「近くの、あの安いとこでどうです?

前に行った、唐揚げが無駄にでかい店」


「構わない」


「よっしゃ」


 リクは、デスクの電源を落としながら小さくガッツポーズをした。



 居酒屋の中は、平日の夜にしてはほどよい賑やかさだった。


 焼き鳥の煙と、揚げ物の匂い。

 隣のテーブルからは、仕事の愚痴と笑い声が混ざって聞こえてくる。


「とりあえずビールでいいですか?」


「ああ」


「生ふたつお願いしまーす。それと、唐揚げとポテトと……枝豆と……」


「脂と糖の塊だな」


「美味しいわけですね」


 そんなやり取りをしながら、メニューをテーブルに置く。


 店の隅の壁掛けテレビには、ニュース番組が流れていた。

 音は小さめで、店内のざわめきに紛れている。


 しばらくすると、ビールジョッキが運ばれてきた。


「お疲れさまです」


「お疲れ」


 ジョッキが軽く触れ合う。


 一口飲んだ瞬間、喉を通る冷たさに、今日一日の重さが少しだけ剥がれ落ちる気がした。


「……ふー」


「効果は出ているようだな。統計の」


「統計、侮れないっすね」


 冗談めかして言ってから、リクはジョッキをテーブルに置いた。


 唐揚げが山盛りの皿でやってくる。

 ポテトフライ、枝豆。

 テーブルの上が、いつもの“安い幸せ”で埋まっていく。


「そういえば」


 ポテトをつまみながら、リクがぽつりと口を開いた。


「この前の、親子、覚えてます?」


「親子?」


 ジンが少し考えるように視線を宙にやる。


「お店で、飲み物こぼしちゃった……」


「ああ」


 短い相槌。

 その一音の中に、映像が一気によみがえったような気配があった。


「……あの、お母さんが」


 言葉が喉に引っかかる。


「事故に遭って、亡くなったそうで」


 テレビの音が、一瞬だけ遠くなる。

 さっきまで気づかなかったニュースキャスターの声が、急に耳に残り始める。


「そうか」


 ジンは、それ以上何も言わない。

 否定も、安易な慰めも挟まない。


「そんなに……知り合い、ってほどでもなかったんすけどね」


 リクは、自分の指先を見つめた。


「でも、公園で会って、一緒に笑って、連絡先も交換して。

 次、また遊びましょうねって……」


 そこで一度、言葉が途切れた。


「“今度”って、便利な言葉ですよね」


 苦笑を混ぜる。


「“今度”が来ないことなんて、いくらでもあるのに。

 なんか、“また今度”って言っとけば、

 全部大丈夫みたいな顔して……」


 ユアの笑顔。

 リオの「またあそぶ!」という声。


 それらが、ビールの泡と一緒に喉の奥へ沈んでいく。


「そこまで親しくもないのに、こんなにざわつくの、おかしいですよね」


「おかしくはない」


 ジンが、少しだけ低い声で言った。


「人は、関係の長さと感情の強さを、必ずしも一致させない」


「……ジンさんらしい」


「らしいか?」


「論理っぽくて、でも、ちゃんと人の話を聞いてる感じです」


 自分で言ってから、ジョッキをもう一度持ち上げた。


 壁のテレビが映像を切り替える。

 スポーツニュースの直前、一瞬だけテロップが画面を横切った。


 《原因不明の感情障害》《軽度認知異常》《AI診断では問題なし》


 白地に黒い文字。

 括弧に囲まれた、「専門家は関連を否定しています」の一文。


 誰かがチャンネルを変えたのか、すぐに野球のハイライトへ切り替わる。


「……」


 リクは一瞬だけそちらへ目を向けたが、すぐにジョッキへ視線を戻した。


「最近、変なニュース多いですよね」


「どれのことを言っている」


「なんか、“よく分からないけどみんなイライラしてます”みたいなやつです」


「曖昧なまとめ方だな」


「まとめただけマシってことで」


 ジンの返事が、半拍遅れて笑いに変わる。


 そのズレが、なぜか少しだけ安心材料になった。


「ジンさん、飲むと顔に出ないタイプですよね」


「出ないほうだと思う」


「そのわりに、グラス減るの早いんですよね」


「……統計上、アルコールは速度で飲むものではない」


「それ、どういう統計ですか」


 くだらない会話。

 でも、そのくだらなさに救われる夜もある。


 唐揚げの油が、少し冷えてきたころ。

 テーブルの上の皿が、だいぶ片付いてきた。


「もうそろそろ解散するぞ」


 ジンが時計をちらりと見て言う。


「ですね。あんまり飲みすぎると、明日怒られそうですし」


「怒るのは誰だ」


「ジンさんか、システムか、上司か。

 たぶん、全方位から順番に」


「それは困るな」


 お会計を済ませて店を出る。

 外の空気は、アルコールで少し熱を持った体に、気持ちよく冷たかった。


 ビルの間を通る風。

 ネオンの光。

 信号機の赤と青。


 そのすべてが、ほんの一瞬だけ“止まって”見えた。


(……酔ってんな)


 瞬きをしたら、すぐに元通りになる。

 人の話し声、車の走る音が、いつもの夜を形作っていた。


「ジンさん」


「なんだ」


「今日は、ありがとうございました」


「礼を言われるようなことはしていない」


「でも、なんか……助かりました」


 うまく言葉にできない。

 できたところで、説明になるだけな気がした。


「こういう日って、一人で帰ると、“何か”考えちゃうんで」


「何か、か」


「はい。名前がつけられないやつです」


「……そういうものは、すぐに名前をつけないほうがいい」


「それ、今日の名言にしておきます」


 駅前のロータリーが見えてくる。

 ここで、ふたりの帰る方向は分かれる。


「じゃあ、また明日お願いします」


「明日も仕事はある」


「はい。ちゃんと行きます」


「当然だ」


 ジンは、いつも通りの短い返事だけを残して、反対側の道へと歩き出した。


 リクは、その背中がビルの角に隠れるまで見送ってから、ホームへ続く階段とは逆方向へ足を向けた。


「……帰りますか、愛する妻の元に」


 小さく呟く。

 誰に聞かせるでもない、酔いに混ざった独り言だった。


 夜空には、薄い雲の隙間から、

 ぼんやりと月が見えていた。



 家へ向かう道は、いつもと同じはずだった。


 駅からマンションまでの、見慣れた通り。

 コンビニの前を通って、小さな公園の横を抜ける。


 電柱に貼られた古いポスター。

 消えかけた横断歩道の白い線。


 どれも何度も見てきたものだ。


(……やっぱり、酔ってるな)


 足取りがふらついているわけではない。

 でも、遠くの街灯の光が、いつもより少しだけ滲んで見えた。


 さっきの居酒屋での会話を思い出す。


 ユアのこと。

 リオの笑顔。

 「今度」という言葉。


 それと同じくらい、今は、ジンと並んで歩いた帰り道の感触も、薄く残っていた。


「……」


 マンションのエントランスをくぐる。

 オートロックの扉が、いつもの電子音を鳴らして開いた。


 エレベーターの鏡に映る自分の顔は、少しだけ赤い。

 でも、目の奥だけは妙に冴えていた。


(今日は、ちゃんと“ただいま”言おう)


 そんなことを、ぼんやりと考える。


 ユアの「今度」が、永遠に来なかったことが、どこか頭の隅に引っかかっている。


(“また今度”って、ほんとに便利だな)


 だからこそ、今ちゃんと帰れる“今日”に、ちゃんと声をかけようと思った。


 エレベーターの扉が開く。

 廊下を歩き、自分の部屋の前に立つ。


 鍵穴にキーを差し込む。

 カチャリ、と音がした。


「ただいまー」


 いつもより、少しだけ明るい声。

 酔いも混じった、少し軽い調子。


 返事は、なかった。


 靴を脱ぎながら、違和感がほんのわずかに背中を撫でる。


(……寝てるか)


 そう自分に言い聞かせる。

 今日は自分も遅くなったし、サラも仕事で疲れているんだろうと思った。


 廊下の照明をつける。

 玄関から続く細い廊下が、白く浮かび上がる。


 リビングのドアを開ける。

 中は真っ暗だった。


「サラ?」


 名前を呼ぶ声が、闇の中に吸い込まれる。


 手探りで壁のスイッチを探し、電気をつける。

 柔らかい白い光が、部屋全体を照らした。


 テーブルの上には、コップが1つ。

 飲みかけの水が少しだけ残っている。


 ソファの脇には、畳まれかけた洗濯物。

 クッションがひとつ、背もたれからずり落ちていた。


 生活の途中で、ふっと時間が切れたような光景。


「寝室……かな」


 声に出す必要のない言葉を、小さくこぼす。


 廊下の先、寝室のドアは半分だけ開いていた。

 隙間からは、灯りが漏れていない。


 ドアノブに手をかける。


「サラ」


 もう一度、名前を呼ぶ。

 返事は、やはりない。


 ドアを押し開けた。


 ベッドの上に、サラがいた。


 横向きで、こちらに背中を向けるようにして寝ている。

 白いシーツ。

 少し乱れた掛け布団。


 一瞬だけ、「ああ、寝てるんだ」と思った。


「……サラ?」


 呼びかけながら、一歩近づく。


 部屋の中の空気が、妙に冷たく感じた。

 窓は閉まっているはずなのに、風の通り道だけがどこかにあるような、薄い空洞感。


 ベッドの脇まで歩く。

 サラの顔が見える位置まで、ゆっくりと回り込む。


 そこにあったのは、“眠っている顔”とは違うものだった。


 穏やかで。

 苦しんだ跡も、泣いた跡もない。


 ただ、どこか遠くを見てから、最後に少しだけ安堵したような表情で止まっている。


 胸の上下は、ない。


「……え?」


 声が、勝手に漏れた。


 意味のない音。

 単語にもなっていない。


 足元から、何かがすっと抜けていく感覚があった。

 床に立っているはずなのに、自分の重さをうまく感じられない。


 鞄の持ち手から、力が抜ける。

 ドサッ、と鈍い音がして、床に落ちた。


 その音だけが、やけに大きく響く。


「サラ」


 名前を呼ぶ。

 さっきより少しだけはっきりした声で。


 返事は、やはりない。


 呼吸の音も、寝返りの気配も。

 いつもなら聞こえてくるはずの、小さな布擦れの音も。


 何も、ない。


 部屋の時計の秒針の音だけが、やけに大きく聞こえた。


 コチ、コチ、コチ。


 不意に、その針が、ひとつだけ動きを止めた。


 数秒か、数十秒か。

 時間の感覚が、すべて曖昧になる。


 そして、針は、止まっていた位置とは少し違うところから、また動き始めた。


「……」


 リクは、声を失っていた。


 泣くこともできない。

 叫ぶこともできない。


 喉の奥のほうで、何かが震え続けているのに、音として外に出てこない。


(なんで)


 その言葉が、形になる前に崩れる。


(朝まで、普通に……)


 今日の朝の光景を思い出そうとしても、うまく映像にならない。

 サラが仕事に行くときの背中。

 「行ってきます」の声。

 全部、霧の向こう側に押しやられてしまったみたいだった。


 目の前にあるのは、ただひとつの事実だけ。


 サラが、動かない。


 それだけ。


 世界のどこかで、何かが静かに切り替わる音がした気がした。


 寝室には、秒針の音だけが続いていた。


 さっきまでと同じリズムで。

 何事もなかったかのように。


 ただ、リクの世界だけが、

 音のない場所へ落ちていった。

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