EP06 名前を持たない違和感

 昼下がりの屋上は、少しだけ湿った風が吹いていた。


 手すりに背中を預けて、リクは紙パックのカフェオレを吸っていた。

 その姿は、まるで“休憩を擬態している犬”のようだった。


「……おっ?」


 扉が開く音に気づき、リクが顔を上げた。


 出てきたのはジンだった。

 白衣は着ていない。ラフなシャツでシンプルな服装。


「ジンさん」


 ジンは軽く頷き、隣の手すりへ無言で立った。


 少し間を置いて、リクが口を開く。


「また会いましたね、ジンさん。」


「ああ。」


 それだけ。

 会話を続けようとする色は薄い。でも、帰る気配はない。


 リクは嬉しそうに笑って、紙パックをひょいと掲げた。


「ここ、サボりポイントに最高なんですよね。」


「サボり……?」


「あ、いや、“休憩です”。“合法的休憩”。」


 慌てて言い換える。

 ジンはそれに反応しない。別に怒ってるわけでもない。ただ風だけが二人の間を抜けていく。


(この距離感……なんか好きだな、俺。)


 リクは自分で驚いた。


 まだほとんど話していない。

 なのに“この人にはちゃんと向き合わなきゃ”と思ってしまう。


 自分でも説明できない“スイッチ”みたいな感覚。


 沈黙が落ち着いてきた頃、リクがふと呟いた。


「ジンさん、休みの日って……何してるんですか?」


 ジンがゆっくり視線を向ける。


「……何も。」


「え、マジで?」


「……ああ。」


「いや、なんか……それ絶対もったいないですよ。」


 リクは笑いながら、腕を組んでみせる。


「俺、休みの日に何もしないと、逆に不安になるタイプなんで。」


「……わかる。」


「え、本当ですか?」


「不安……というより、落ち着かない。」


「え、それ……」


 リクはニヤリと笑った。


「似てますよ、俺ら。」


 ジンは答えない。でも、否定もしていない。


(……この温度、悪くない。)


 ジンは胸の奥でひっそりと思った。


 “人と話す”という行為が、2035年ではほとんど消滅していた。

 感情を均す世界で、人との距離は全て規定値になっていたから。


 ここは違う。

 雑で、うるさくて、面倒くさくて――生きている。


 リクが、話題を変える。


「そういえばジンさん、今日うちの部署の朝礼で、主任が“今季からは部署間交流を積極的に”とか言ってたんですが…」


 リクはカフェオレを振りながら顔をしかめた。


「俺、ああいうの苦手なんですよ。無駄に緊張するし。」


「……わかる。」


「え、ジンさんも?」


 ジンはわずかに視線を逸らした。


「無駄な交流は……あまり得意ではない。」


「ですよね!」


 リクの顔がぱっと明るくなる。


「むしろ俺、こうやって少人数で話してる方が楽です。」


 ジンがわずかに息を整える。


(……2035年と違う。)


 リクはまだ感情が豊かだ。

 ただの昼休みなのに、言葉が自然に流れる。

 この軽さも、笑いも、世界にまだ残っている。


 ジンは胸に溜まっていたものを噛みしめた。


(……これが、失われていく。)


 風が少し冷たく吹いた。


 リクはその変化に気づかないまま、もう一口カフェオレを吸った。


「ジンさん、また昼ここ来ます?」


「……来る。」


「じゃあ、また会ったら……かまってくださいね。」


 リクは照れたように頭をかいた。


 ジンはほんのわずかに、頷いた。


(ここから、始める。)


 この何でもない昼休みのやり取りが、

未来の“全部届かなかった悲鳴”に向かう第一歩になる。



 研究フロアの空気は、午後になると少しだけ乾く。

 ジンはモニターを三台並べ、淡々と指を滑らせていた。


 グラフはどれも“正常”を示しているはずだった。

 だが――ひとつの折れ線が、微妙に揺れていた。


(……この角度、前年度と違う。)


 生活ストレス指数。

 子育て世帯、長時間労働層、都市部在住者を組み合わせたクラスタだけが、

“ごく弱く”右肩上がりになっている。


 誤差と言えば誤差。

 だが、データの“癖”を知っているジンからすると、どうにも落ち着かない曲線だった。


(計測器の更新タイミング……いや違うな。)


 別のタブを開き、地域ごとのログを照らし合わせる。

 似た傾向が、薄く、だが確かに重なっていた。


(……気のせいか。)


 そう片づけようとしても、胸の中にだけノイズが残った。


 その“ざらつき”に気づかないふりをしたまま、ジンはモニターを閉じた。


 屋上へ向かったのは、ほとんど反射のようなものだった。


 扉を開けると、すでにリクがいた。

 手すりに腰を預け、ペットボトルの紅茶を揺らしている。


「ジンさん、お疲れさまです!」


「……ああ。」


 リクは相変わらず、陽の光みたいな笑顔を向けてくる。

 屋上で会うのがこの時間軸でも当たり前になってきた。


「いやー……今日、ちょっと変なこと言われてですね。」


「変なこと?」


「上から“最近のデータで気になる点はありますか”って聞かれたんですよ。

 俺、ただの下っ端なのに。」


「……ふむ。」


「だから“なんか最近、怒ってる人減りました?”って適当に返したんですけど。」


「怒ってる人……?」


「いや、なんか……雰囲気。

 みんな丸くなったというか、無気力になったというか……。

 すみません、説明できないんですけど。」


 リクは照れくさそうに頭をかいた。


(……肌感覚で同じことを言うのか。)


 ジンの胸に、さっきのグラフが蘇る。


「ジンさんはどう思います?」


「……雰囲気の話は、判断が難しい。」


「ですよねー。でも俺、なんか変だと思うんですよ。

 数字上は普通っぽいのに……説明できないけど。」


 ジンの指先がわずかに止まった。


(数字は揺れている。気のせいで片づけたが……)


 リクは続ける。


「まあ、気にしすぎかもしれませんけどね!

 俺、疲れると“感覚の方が信用できる”って思っちゃうタイプなんで。」


 ジンは静かに息を吸った。


「……感覚が先に動く時もある。」


「え、ジンさんがそんなこと言うんですね。」


「どういう意味だ。」


「いや、もっと……ガッチガチに数字派かと思ってました。」


 リクが笑う。

 その軽さに、ジンは返す言葉を見失い、視線を横へ逸らした。


(……数字も、感覚も、まだ正常の範囲。

 だが――“ズレの兆し”は確かにある。)


 風が二人の間を抜けていく。

 どこかひんやりしていた。



 7月の夜風は、少しだけぬるかった。


 駅前から少し歩いた先にある小さなダイナーの窓に、街灯の光がにじんでいる。

 テーブル席には、ジンとリクとサラの3人が向かい合って座っていた。


「いやー、月1ご飯が定例化してきましたね。」


 リクがメニューを閉じて、嬉しそうに言う。


「……そんな決まり、あったか。」


「ジンさん、暗黙の了解ってやつですよ。」


 サラがくすっと笑う。


「私は助かってるよ。リク、ここで仕事の愚痴を出してくれるから、家でのダメージが減ってる。」


「え、それはそれでちょっと傷つくんだけど。」


 口ではそう言いながらも、リクの表情は楽しそうだった。


 店内には小さく音楽が流れ、隣の席では会社員らしきグループが笑っている。

 仕事終わりのざわめきと、3人だけのテーブルの温度が、いい具合に混ざっていた。


「今日も現場、混んでたの?」


 水を飲みながら、リクがサラに尋ねる。


「うん、バタバタ。子どもたちは元気なんだけどね。」


「お、出た。“だけど”のやつ。」


 リクが身を乗り出す。

 サラは少しだけ目線を落として、続けた。


「最近さ、“子どもはちゃんと笑ってるのに、親がちょっと遠い”って感じが、前より増えた気がして。」


「遠い?」


「話してる内容は普通なんだけど、返事に温度が乗ってないというか……。

 子どもが不安そうに親の顔を見てるのに、親のほうは“反応しなきゃ”って感じで返してる、みたいな。」


「へぇ……。」


 リクはストローを指でつまみながら、どこか思い当たるように目を細めた。


「なんか、最近ラボで見てるログと似てるな。」


「ログ?」


「子持ち世帯の“感情データ”ってやつ。

 子どもの“楽しい”はちゃんと出てるのに、親側のグラフが妙に平らな人、ちょいちょい増えてきてて。」


 そこで、ジンが静かに会話に入る。


「……親側のノイズが、小さく増えている。」


「ノイズ?」


「気のせい、誤差、計測のブレ……で片づけられる程度の揺れだ。

 だが、同じ条件で集まる揺れは、誤差ではない可能性が高い。」


「うわー……急に“それっぽい”。」


 リクが苦笑する。


「でも、ジンさんがそう思うってことは、やっぱりちょっと変なんですね。」


 ジンはグラスの水面を一度見てから、小さく頷いた。


「……まだ“変だ”と断言できるほどではない。

 ただ、“気になる”レベルの地点に来ている。」


「気になる、ね。」


 サラが、その言葉をなぞるように呟く。


「こっちも、“なんか引っかかる”くらいなんだよね。

 さっきの親子もそうだったんだけど……子どもはこっち見てニコニコしてくれるのに、お母さんのほうが、どこか遠く見てる感じ。」


「遠く。」


「うん。“ここ”にいるんだけど、“ここ”に集中してないというか。」


 リクはストローをくるくる回しながら、肩をすくめた。


「なんか……やだな、それ。」


「やだね。」


 短い言葉が、テーブルの上で静かに重なる。

 店の奥から、注文した料理を運ぶ声が聞こえてきた。


「でもまあ、私たちが今できるのは、“ちゃんと見る”くらいかな。」


 サラはそう言って、表情を整える。


「看護師の勘ってやつです。」


「ジンさん的には、“勘”ってどうです?」


 リクが話題を振る。ジンは少しだけ考えてから、答えた。


「……合理的ではないが、無視すべきではない。」


「それ、ほめ言葉でいいやつですか。」


「境界線上だ。」


「ジンさんらしいなー。」


 リクの笑いにつられて、サラもふっと笑った。


「でもさ、その“ざわざわする感じ”を、ちゃんと口に出してくれる人がいるのは、結構大事だと思う。」


「ざわざわ。」


「うん。説明はできないけど、“何かおかしい気がする”っていうやつ。

 病院でも、それを言える人が減ってる気がするから。」


「……記録しておく。」


 ジンのその一言は、メモを取るというより、自分の中に刻む宣言のように聞こえた。


 そのとき、店の外を親子連れが1組、店先を通り過ぎていく。

 ガラス越しに、その子どもがこちらを一瞬だけ見た。


 サラは反射的に視線を返す。


(さっき話してた親子……に、似てるような。気のせいかな。)


 女の子はすぐに母親の手を引いて、夜の街へ消えていった。


 テーブルには、まだ湯気の立つ料理と、3人分のグラスが並んでいる。

 笑い声と仕事の愚痴と、説明できない“ざわざわ”が、同じテーブルの上に静かに積もっていった。



 店を出ると、夜風がふわりと三人の体を撫でた。


 さっきまでいたダイナーの窓から、まだ笑い声が漏れている。ガラス越しの明かりが、歩道のタイルに四角い光を落としていた。


「いやー、今日も食べましたね……。明日から本気出します。」


 両手を頭の後ろで組みながら、リクが大げさに伸びをする。


「それ、先月も聞いた。」


「ジンさん、記憶力よすぎません?」


 サラが肩を揺らして笑った。


「でも、こうやって月に1回でも外でご飯食べてくれると、私としては助かるよ。リク、家での“だるいオーラ”が減ってきた。」


「ねえ、それ今日何回目のダメージですか。」


 軽口の応酬が、夜の街のざわめきに溶けていく。


 駅へ向かう通りには、仕事帰りの人たちや、買い物袋を提げた親子連れがちらほら歩いていた。信号待ちの列。コンビニの自動ドアの開閉音。遠くでバスが停まる音。


 サラは、その中の「親子」の姿を無意識に目で追っていた。


「……あ。」


 小さく息が漏れる。


 横断歩道の手前、コンビニの明かりのそばに、見覚えのある後ろ姿があった。


 小さな女の子が、大人のコートの裾をぎゅっと握っている。髪を二つに結び、足元は少し大きめのスニーカー。母親と思しき女性は、スマホを片手に持ったまま、ぼんやりと信号を見つめていた。


(外来の待合で……)


 昼間、診察室の前のベンチで見かけた親子。

 あの時も、女の子の笑いと、母親の返事の温度が、どこか噛み合っていなかった。


 眼だけで追いながら、サラは一瞬迷う。


 仕事を離れた場所。

 病院でもない、プライベートな時間。


(……でも。)


 女の子の表情がちらりと見えた瞬間、その迷いは薄れた。

 さっきと同じ、不安を隠すみたいな笑顔。


「ごめん、ちょっとだけ。」


 サラは二人にそう一言だけ告げて、リクとジンを交互に見つめた。


「サラ?」


 リクが首を傾げる。


 ジンも視線だけ、その方向へ向けた。

 ほんの一瞬だけ。

 街灯。車のライト。コンビニの看板。

 色と光が夜の中に散らばる。

 そして、サラの表情が急に輪郭を変えたように見えた。


 歩幅を少し早め、サラは親子の斜め前まで歩き、タイミングを見計らって、わざと少しだけ声を大きく出した。


「あ、さっき病院でお会いしましたよね?」


 母親がはっとしたように顔を上げる。女の子が、その陰からサラを見上げた。


「えっと……看護師さん、でしたよね?」


「はい。たまたま通りかかって、あれ?って。」


 サラは、女の子と同じくらいの高さまで膝を折る。


「こんばんは。元気そうだね。」


 女の子は一瞬きょとんとして、それから小さく頷いた。


「うん。」


 その声には、ちゃんと温度があった。


 サラは自然な笑顔を保ちながら、視線をそっと母親へ移す。


「お母さんも、これからお帰りですか?」


「あ、はい…そうです。」


 言葉自体は普通だ。

 けれど、返事までのわずかな間と、声の抑揚の平らさが、昼間と同じようにサラの感覚に引っかかる。


 女の子が、母親の顔を上目で見た。


 “これで合ってる?”と確かめるように。


(……やっぱり、気のせいじゃないな。)


 サラは胸の奥で小さく息を飲む。


「最近、夜は少し涼しくなってきましたね。お子さん、風邪ひかないようにだけ気をつけてあげてくださいね。」


「そうですね……気をつけます。」


 母親は、ちゃんと礼儀正しく頭を下げた。

 それでも、その動きのどこか一部が、ほんの少しだけ“追いついていない”。


 その様子を、少し離れた場所でジンは見ていた。


(……ん?)


 親子の周りだけ、音が半拍遅れて届く。


 女の子がスニーカーで地面を蹴る音。

 母親のスマホケースがカバンに当たる小さな音。

 人の声。車のタイヤが路面を擦る音。


 全部、聞き慣れた日常の音のはずなのに、薄い膜を一枚通して耳に入ってくるような違和感。


 視界の端で、光の色がわずかに変わる。


 街灯の白は、そのまま白だ。

 それでも、親子のシルエットの縁取りだけが、数字の線画みたいに細く浮かび上がる。


(……情報?)


 瞬間、そんな言葉がよぎる。


 女の子の肩の位置。

 手の握る力。

 母親の姿勢の傾き。


 それらが同時に、“数値化できる何か”として頭に流れ込んでくる感覚。


 ジンは、無意識に瞬きをした。


 次の瞬間には、世界は元に戻っていた。


 車の音も、人の声も、いつも通りのざわめきだ。

 街灯も、看板も、ただの光に戻っている。


(……今のは。)


 リクが隣で首を傾げる。


「ジンさん?どうかしました?」


「……いや。」


 短く答えながら、ジンは視線を親子から外せなかった。


 サラは女の子の頭を、そっとひと撫でする。


「もう遅いから、気をつけて帰ってね。」


「うん。」


 女の子の笑顔は、さっきより少しだけ柔らかかった。

 その横で、母親も小さく会釈する。


 サラは、あくまで“通りすがりの看護師”としての距離を崩さない。


「それじゃあ、またどこかで。」


 軽く手を振り、親子と別れる。


 女の子が母親の手を引き、信号が青に変わった横断歩道を渡っていく。小さな背中が、徐々に夜の街に溶けていった。


 サラがジンとリクのところへ戻る。


「ごめん、お待たせ。」


「ううん。サラさんの“看護師モード”、ちょっとかっこよかったです。」


 リクが冗談めかして言う。サラは照れたように笑った。


「ただの習慣だよ。見ちゃうんだ、どうしても。」


「さっきの親子、病院の人?」


「うん。昼間、ちょっとね。」


 サラはそれ以上、余計なことは言わなかった。

 今ここで診断を口にできるほど、何かがはっきりしているわけではない。


 ジンは、短く問いかける。


「……さっきの親の反応。」


「うん。」


「やはり、薄いか。」


「“普通”だと言われたら、それまでなんだけどね。」


 サラは夜空を一度見上げた。


「でも、子どもの目が、全部教えてくれる気がする。」


 ジンはその言葉を、心のどこか深いところに置いた。


 さっきの一瞬のノイズ。

 音の遅れ。輪郭の変化。情報として流れ込んできた感覚。


(……なんだ、今の。)


 説明も、名前も、まだつけられない。


 ただ、“あの親子”を見た瞬間にだけ起きた現象として、ジンの中に刻まれていく。


 遠くで電車の走る音がした。


 3人は再び駅へ向かって歩き出す。


 何も知らない親子の背中と、

 まだ名前のない“揺らぎ”だけを、夜の街に置き残したまま。

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