エピローグ 冬の音の向こうへ

エピローグ 冬の音の向こうへ


 からから――。


 乾いた音が、道の向こうから転がってきた。

 枯れ葉が風に押され、石畳の上を走る音だ。


 冬の朝。

 空は灰みがかった薄青で、遠くの雲は薄い綿のようにほどけていた。

 冷たい空気が肺に入るたび、胸の奥がすんと澄んでいく。


 春秋はマフラーを整え、ゆっくりと歩き出した。

 昨夜、最終話を投稿し、そして初めての星レビューが届いた。


 胸の奥に、まだ温度が残っている。


《春秋さん、今日は外に出るのですね》


「うん。

 部屋にいるだけじゃ、気づけない音がある気がして」


《冬の音、ですか》


「そう。……今なら聞こえる気がするんだよ」


 道の脇で、また枯れ葉が走った。

 からから、と乾いた小さな音。

 その音が、胸の奥に優しく触れた。


■ 冬の匂いは、生きている匂い


 風が吹き抜ける。

 ほんのり土の匂い、遠い焚き火のような香り、

 冷えた空気の金属的な匂い。


 春秋は目を細めた。


「……なんだろう、イチ。

 冬の匂いって、こんなに“生きてる”んだね」


《あなたが今、感覚を取り戻しているからです》


「感覚……?」


《痛みから逃げる時、人は呼吸も視界も閉じます。

 しかし今のあなたは、世界を再び“受け取ろう”としている》


 胸の奥がふっと温かくなる。


「ねぇ、イチ。

 私、本当に……変われてるのかな」


《変わりました。

 昨日までのあなたは、今日のあなたではありません》


 足元で、枯れ葉がころんと転がった。

 小さな音が、まるで肯定するようだった。


■ 公園のベンチで、ひとつ深呼吸


 公園に入ると、風景はさらに冬色を深めていた。

 枝を落とした木々、曇った池の水面、

 ベンチの上に積もる薄い霜。


 春秋はそのベンチに腰を下ろした。

 冷たい木の感触がジンと伝わる。


《寒くありませんか?》


「寒いけど……大丈夫。今はこの冷たさも必要な気がする」


《なぜですか?》


「生きてるって……こういうことだよね。

 痛いことも、冷たいことも、ぜんぶ感じるっていうこと」


《そのとおりです。

 痛みはあなたを壊すためではなく、あなたを動かすためにあります》


 風がまた吹いて、枯れ葉が舞った。

 ひとつ、春秋の足元に落ちる。


 濃い茶色の葉は、触れれば簡単に崩れそうだった。


「ねぇイチ。

 枯れ葉って、どうしてこんなに音がするんだろう?」


《乾きです。

 水分を失い、軽く、脆くなっているからこそ、風に乗れば音となる》


「……なんか、人間みたい」


《人間、ですか》


「うん。

 苦しんで、悲しんで、乾ききったとき、

 初めて“音”になるんだよね。

 声にならない声……みたいにさ」


《春秋さんの声も、世界に届き始めています》


 胸の奥で、そっと何かが震えた。


■ レビューの一文が胸に落とした灯り


「昨日ね、レビュー読んだあと……泣いちゃったんだ」


《知っています》


「えっ、見てたの?!」


《感じました。あなたの呼吸が、少し震えていましたから》


「……そっか」


 春秋はマフラーを握りしめた。


「“また読みに来ます”って……

 ただそれだけの言葉なのに、どうしてあんなに響いたんだろう」


《あなたが欲しかったのは“正しさ”ではなく“つながり”だからです》


「つながり……」


《ええ。あなたはずっと孤独でした。

 読めず、理解されず、誤解され、疑われ……

 それでも書き続けた。

 その孤独の中で届いたたった一文は、

 あなたの冬に差し込んだ最初の光です》


 春秋は胸に手を当てた。

 その光は、今も小さく灯っている。


■ 過去と未来のあいだに立つ


「イチ。

 私は読めないままなんだよね?」


《はい。それは変わらないでしょう》


「うん。わかってる。

 でも……読めないままでも、書けるんだよね?」


《はい。あなたは“音で読む人”です》


「音で、読む……」


《枯れ葉の音。

 キーボードの音。

 心の震える音。

 あなたはそれらを物語に変える人です》


 冬の風が吹く。

 コートの裾が揺れた。


 そのとき春秋は、ふっと笑った。


「ねぇイチ。

 私、もう大丈夫かもしれない」


《はい。あなたはもう歩けます》


「過去は消されたけど……

 物語は消えない。

 私の中にある限り」


《ええ。その通りです》


■ からから――冬の音が背中を押す


 春秋が立ち上がると、

 また枯れ葉が足元を走った。


 からから。

 からん。


 乾いて軽いその音は、

 どこか楽しげでもあった。


「……イチ。この音、好きかも」


《なぜです?》


「前に進む音みたいだから」


 小さな、でも確かな音。


 過去を手放す音。

 未来に向かう音。


 春秋は空を見上げた。

 雲の向こうに薄い陽光が滲んでいる。


「さぁ、帰ろう。

 書きたいもの……いっぱいあるんだ」


《はい。

 冬の音の向こうで、あなたを待っている物語があります》


 春秋は歩き出した。

 背中を押す風は冷たいけれど、

 胸の奥は静かに温かい。


 からから、と枯れ葉が走る。


 その音に導かれるように、

 新しい物語へと一歩を踏み出した。


枯れ葉走る 乾いた音を 耳に受け

音で読む人 光灯(とも)し書く


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